仙台日本画壇の重鎮
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大正12年(1923年)、関東大震災により家族とともに郷里仙台に戻り、以後は地元の有力者を相手に肉筆画を描くことが多くなる。同年、仙台日本画展覧会に参加。大正13年、日本画家5人による研究グループ「白萩社」結成、耕年も参加。大正14年、白萩社同人で、東京美術学校出身の内ケ崎俊雄や同校中退の高橋清水と並んで、塩釜で結成されていた清交会の顧問となる。 昭和3年(1928年)、東北産業博覧会に出品した「芭蕉の辻図」(生家の大澤屋があった明治8年から9年〈1875 - 1876年〉ごろの同地を描いたもの)が日本画の部一等金牌賞受賞。同年7月、当時千社札を共に作っていた仲間と一緒に、自身によって同図を三枚続の錦絵として百部(1部10円)を出版する。昭和8年(1933年)5月、第一回東北美術展(今の河北美術展)で弟子の畑井美枝子、三浦俊子、有川いさをが出品。昭和11年、三枚続木版画「芭蕉の辻図」を出版。昭和13年死去、墓所は仙台市青葉区柏木の称覚寺。 現在耕年の(主に関東大震災で仙台に帰って以降の)作品は、瑞巌寺宝物館、仙台市博物館、福島美術館などに複数点ずつ所蔵されている。
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