二玄社時代
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「鈴木正文 (編集者)」の記事における「二玄社時代」の解説
1983年、「カーグラフィック」などを出版する二玄社に入社。1984年には自動車雑誌「NAVI」(2010年2月休刊)の創刊に携わり、1989年には同誌二代目編集長に就任した。「共産主義者」を自称し、紙上では「毛語録」を引用した記事を書いたり、フランスが核実験を実施すれば誌上でフランス車ユーザーを募ってフランス大使館ヘフランス車を連ねたデモを行い、1991年の湾岸戦争勃発時にもやはり誌上にて反戦デモ(クウェートを侵略したイラクに対しての「反戦」ではなく、クウェートを助けるアメリカ軍やイギリス軍、サウジアラビア軍などの多国籍軍に向けたもの)への参加を呼びかけ、同3月には明治公園で「反戦集会」(事実上の反米集会)を実施したり、ダニエル・コーン=ベンディットへのインタビュー記事を掲載するなど、編集長時代には、既存の自動車雑誌にはない「鈴木らしさ」を全面的に出した言動を展開した。 なお、1991年のソビエト連邦の崩壊後には、「共産主義者」を自称することはなくなった上、プチブル的なものに対するあこがれを隠さなくなったことから「裏切り者」と呼ばれるようになった。 また、1993年初頭には、鈴木の編集部運営に反発した編集部員10人程度が二玄社経営陣に対し鈴木の編集長解任を求め、抗議行動を起こし大量に離脱するという事件を起こした。なおこの際、副編集長だった小川文夫(現・小川フミオ)と今尾直樹は鈴木側に立ち、また陶山拓、 岡小百合、青木陽子らも編集部に残留した。なお、抗議行動を起こした編集部員らを支援したノンフィクション作家で自動車評論家の中部博、写真家の守屋裕司などは同誌編集部から出入り禁止になった。しかし、経営陣は鈴木の編集長時代に「NAVI」の部数が上がったことなど編集長としての手腕を認め、その後も鈴木を編集長に留めることになる。
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