事故死と因縁話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/19 04:08 UTC 版)
「ウォルトン・ウォーカー」の記事における「事故死と因縁話」の解説
1950年12月23日深夜、米第24師団と英第29師団を視察するために、自身が運転する専用の前線視察用ジープで幕僚の中佐とともに、ソウル北方を移動している時に事故は発生した。このとき米第24師団には息子のサム・ウォーカー大尉(のち大将)が所属しており、訪問を兼ねてのものだった。議政府市南方5kmの街道上で、韓国軍第6師団第2連隊所属のトラックと接触事故を起こし横転、車輌の下敷きとなった。野戦病院に収容され、同乗していた中佐は重傷だったが、ウォーカーはほぼ即死の状態だった。死後は陸軍大将に任じられ、アーリントン国立墓地に埋葬された。事故の起きた12月23日は、東條英機ら絞首刑の執行から丁度満二年後の祥月命日(三回忌)にあたる。ウォーカーが落命した時刻までが一致したので、周囲には七士の祟りと思った者もいる。中将の副官は友軍の韓国将校の意見を入れ、興亜観音に七士の墓があると聞き参拝した。話を聞いた伊丹忍礼師は「怨親平等」のもと彼等を温かく迎え、ウォーカー大将(戦死後進級)の霊を丁重に供養した。
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