事故死と陵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:21 UTC 版)
武王は力があり、普段より力試しを好んでいた。そのため、力があるだけの任鄙や烏獲などの武将がみな大官に任じられた。 武王4年(紀元前307年)8月、洛陽を訪れた武王は孟説という大力の持ち主と鼎の挙げ比べを行い、脛骨を折って死去した。享年23。そのため、孟説は罪されて、一族は滅ぼされた。子がないままの急逝だったために後継者争いが起こったが、燕にいた異母弟の公子稷が即位した。これが昭襄王である。 永陵に葬られた。『史記正義』は、『括地志』に曰くとして、その位置を雍州の咸陽県西北十里で誤って「周武王陵」と呼ばれているところだとする。陝西省咸陽市渭城区周陵街道には周文王陵・周武王陵と伝えられる墳丘がある。ボーリング調査により、この地下に秦代の陵と環濠の存在が確かめられており、永陵の有力候補地である。あるいはその東南3.8キロメートルにある2基の墳丘と墓をあてる説もある。
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