中東戦争とノーベル平和賞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 18:22 UTC 版)
「ラルフ・バンチ」の記事における「中東戦争とノーベル平和賞」の解説
1947年以降、バンチは中東戦争の解決に尽力した。バンチは国連パレスチナ特別委員会(英語版)のアシスタントを務め、その後、国連パレスチナ委員会(英語版)の首席秘書官を務めた。1948年、国連パレスチナ調停官に任命されたスウェーデンのフォルケ・ベルナドッテの首席補佐官として中東に赴任した。ベルナドッテはロドス島に活動拠点を置いた。しかし、ベルナドッテは1948年9月にエルサレムで、イツハク・シャミルが率いる武装シオニストの過激派分子・レヒによって暗殺された。 ベルナドッテの暗殺後、バンチが後継の主席調停官となり、ロドス島で行われる全ての交渉を指揮した。イスラエルの代表はモーシェ・ダヤンだった。ダヤンは回顧録の中で、バンチとの交渉の多くはビリヤード台にて、ビリヤードの玉を撞きながら行われたと記している。バンチは、ダヤンの名前が入ったプレートの製作を地元の陶芸家に依頼し、合意文書の署名の際にそれをダヤンに贈った。ダヤンは、バンチからの贈り物の包みを解きながら、もし合意に達しなかったらどうしたのかとバンチに尋ねた。バンチは、「あなたの頭の上でそのプレートを叩き割っていたでしょう」と答えた。1949年の休戦協定(英語版)の成立に尽力したことにより、バンチは1950年のノーベル平和賞を受賞した。 バンチはその後も国連のために働き続け、コンゴ、イエメン、カシミール、キプロスなど、世界各地の紛争地域での調停を行った。バンチは1968年に事務次長に任命された。
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