中村遊廓成立以前の名古屋の遊廓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 15:10 UTC 版)
「中村遊廓」の記事における「中村遊廓成立以前の名古屋の遊廓」の解説
古くは、徳川家康による飛田屋町廓や徳川宗春による西小路遊廓、富士見原遊廓、葛町遊廓が知られるが、いずれも出現後禁制策がすぐにとられ、長くは続かなかった。江戸期の名古屋で専ら活躍していたのは、百花(もか)と呼ばれた私娼であった。幕末期の安政年間に至り、玉屋町の宿屋渡世笹野屋庄兵衛なる者が上願して、大須観音堂の北にあたる北野新地(清安墓地の南、大光院墓地の西の区画)という一区域に役者芸人の寄宿を許可され、漸次繁盛してきた。 1874年(明治7年)、「日出町近傍を遊所の区劃と定め」ここに名古屋の公娼が誕生したが、北野新地の南西、園町以東を適当とし、1875年(明治8年)これを入れて大須観音の堂裏、堀川以東の5箇所に移転させ、この一廓を「旭廓」と称することとなった。 1876年(明治9年)、工費8800余円を投じて新地に女紅場(じょこうば、女子のための習い事の施設)を新設した。 1905年(明治38年)頃が旭廓の全盛時代と考えられ、娼家173軒、娼妓1618人を数えた。 1912年(明治45年)[要検証 – ノート]になり、名古屋市の都市拡大が進み、風紀上の問題が論ぜられるようになったこと、遊廓の発展で手狭になってきたことから、旭廓の移転問題が浮上してきた。当時の県知事が、貸座敷取締規則に改正を加え、尾張国における貸座敷営業区域を南区稲永新田と限定し、1916年(大正5年)7月限りで現営業地においての営業を許可する旨を発令した。しかし、この移転問題に絡む疑獄事件が発生したことで、旭廓の稲永新田移転の話は立ち消えになり、代わって「愛知郡中村」(当時)へ引っ越す事になった。 結局、稲永は後年、熱田伝馬町からの引っ越しと言う形で遊廓が設置されている。
※この「中村遊廓成立以前の名古屋の遊廓」の解説は、「中村遊廓」の解説の一部です。
「中村遊廓成立以前の名古屋の遊廓」を含む「中村遊廓」の記事については、「中村遊廓」の概要を参照ください。
- 中村遊廓成立以前の名古屋の遊廓のページへのリンク