両説のはざまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 06:45 UTC 版)
今日の考古学界では、この踊る埴輪は踊らないとする見解は有力化してきているが、所蔵者の東京国立博物館はWebサイト上の紹介で、現在も葬送やもがりの場で「踊る人々」とする見解を維持している。一方、国立文化財機構が運営する国立博物館所蔵品データベースサイト「ColBase 国立博物館所蔵品統合検索システム」の解説ページでは馬飼説にも触れている。 「馬飼埴輪」説が学界で有力化していく状況に困惑を見せたのが、埴輪出土地の野原古墳群があり、「踊る埴輪」を町の象徴として活用していた江南町(現・熊谷市)であった(後述)。2006年(平成18年)時の報道取材では、当時の同町教育委員会次長補佐は(「踊る埴輪」の場合は)「馬の埴輪が近くから出土したわけでなはいし、記録もない。馬子だったかどうかは、もう古墳がないため、永久に確認できない」と応じ、町長の福田征芳は「学説は学説。合併しても地域のシンボルであることに変わりはない」とコメントしている。熊谷市立江南文化財センターは、馬飼説に対して、Webページのコラムにて『「踊る埴輪」をPRしたい本市としては、この展開はちょっと困ったものです』と、やや困惑気味であることを認めつつ、経済人類学における「暗黙知」の理論を引用して、「木」は多くの人がそれを「木」と思うから「木」であるように、この埴輪についても大半の人々が「踊っている」と共同認識しているため「踊る埴輪」という認識でよい、という主旨の見解を示している。 文化庁文化財部の禰冝田佳男は、「踊る埴輪」の新しい解釈(馬子説)は、人物形象埴輪全体の様相を踏まえたものであり説得力があるとしながら、こうした農民を表現した埴輪には、鍬を持つもの、笑っているもの、男性器を露出させたものなどもあり、これらが当時の農耕祭祀の中でおこなわれた仕草であるならば、踊っている農民がいても別におかしくはないという考え方もあるとしている。
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