両広の統治者へとは? わかりやすく解説

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両広の統治者へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/28 13:57 UTC 版)

陸栄廷」の記事における「両広の統治者へ」の解説

同年11月7日に、広西巡撫沈秉堃が武昌起義呼応する形で広西省独立宣言し広西軍政府樹立した。この時、沈が軍政府都督となり、布政使王芝祥提督陸栄廷副都となった。まもなく、沈と王は広西省離れたため、陸が広西省実権握った過去の経緯から、中国同盟会など革命派との関係は悪く、陸はこれを鎮圧して省政の主導権握り、また桂軍確立した1912年民国元年2月8日袁世凱から正式に広西都督任命されている。1913年民国2年)の二次革命第二革命)では、袁世凱支持し、省内で蜂起した革命派鎮圧した1914年民国3年)に寧武将軍、翌年には耀武上将軍任命されている。 しかし、雲南省蔡鍔唐継尭らが護国戦争発動すると、陸栄廷密かに袁世凱動き準備し袁世凱宿敵と言うべき岑春煊を密かに招き入れた。そして1916年民国5年3月15日、陸は広西省独立宣言して護国軍側に参加した。この急激な姿勢転換理由について、ある論者は、護国支持世論への配慮だけではなく広東都督竜済光優遇する袁への姿勢への不満や、広東への勢力拡大意図などを指摘している。いずれにしても、陸の独立は袁にとって強烈な打撃となったことは否定できず、その1週間後の3月22日に、皇帝即位取り消した陸栄廷自身の軍は湖南省進軍し莫栄新らの桂軍広東省進攻した。これにより、広東竜済光4月6日に反袁世凱独立宣言迫られている。袁が6月6日病死すると、竜は独立取り消して、再び北京政府についた。しかし、陸の桂軍李烈鈞率い護国軍と挟撃する形で竜への攻撃継続し最終的に竜は海南島逃走した同年10月、陸は広州入りし、広東督軍就任した1917年民国6年4月には、陸は北京訪問し黎元洪から両広巡閲使に任命され広東広西両省の管轄権認められた。

※この「両広の統治者へ」の解説は、「陸栄廷」の解説の一部です。
「両広の統治者へ」を含む「陸栄廷」の記事については、「陸栄廷」の概要を参照ください。

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