両広事変で失脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/19 09:23 UTC 版)
北伐完了後の1928年(民国17年)8月、軍縮措置に伴い、第4軍は第4師に縮編され、繆培南が引き続き師長をつとめた。しかし同年10月から病気療養のため、いったん軍職を離れて香港に赴いている。 1930年(民国19年)11月、陳済棠の招聘に応じ、討逆軍第8路総指揮部総参議として復帰した。翌年5月、蒋介石に反発する汪兆銘・陳らが西南派が広州国民政府を組織すると、繆もこれに加わり、第1集団軍参謀長に任ぜられている。12月、満州事変勃発に伴う大同団結により両国民政府が再合流すると、繆は中国国民党第4期中央候補監察委員に選出された。翌年1月、軍事委員会西南分会委員となっている。1935年(民国24年)11月、国民党第5期中央執行委員(後の第6期でも同様)に選出された。 1936年(民国25年)1月、陸軍中将に任ぜられる。同年6月、陳済棠が反蒋介石の両広事変を起こすと、繆培南もこれに従い、抗日救国軍第5軍軍長兼広東第3軍区司令官に任ぜられた。しかし、余漢謀・李漢魂らが陳・繆に追随せず、敗北に終わり下野した。
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