不二映画社設立
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1931年(昭和6年)9月1日、かねて計画していた独立プロ設立の動きを城戸四郎撮影所長に察知されて辞職勧告を受けて退社。鈴木に同調した岡田時彦、高田稔らと窪井義道の出資を得て、9月4日に不二映画社を設立する。蒲田からは彼らに加え約70数人が同行し、蒲田の男優陣は一時総崩れとなった。同社第1回作品『栄冠涙あり』に主演し、続いて『熊の出る開墾地』『金色夜叉』に出演するが、興行力に乏しい上に大スターを抱えていたため、資金難で解散。その後は一座を組織して各地を巡演する。 1933年(昭和8年)4月、牛原のすすめで日活太秦撮影所に入社し、『戯れに恋はすまじ』に夏川静江を相手役に主演。続いて牛原監督の『大学の歌』や山田五十鈴と共演の『金色夜叉』などに主演するが、かつての人気はとっくに消え失せていた。このあと現代劇部が多摩川撮影所に移ると鈴木も移籍し、『潮』『若夫婦試験別居』に主演するが、溝口監督の『愛憎峠』では助演に回る。1935年(昭和10年)、新興キネマに入り、入江ぷろだくしょんとの提携作『貞操問答』に入江たか子と共演。1939年(昭和14年)、かつて来日して親交を持ったダグラス・フェアバンクスの招きで渡米し、ハリウッド映画に出演する予定だったが、同年12月12日にダグラスが心臓麻痺で急死したため頓挫。そのまま滞米して映画研究や社会事情を学んだのち1941年(昭和16年)に帰国する。同年、日活作品の『姿なき復讐』に主演して映画界に復帰し、1943年(昭和18年)には東宝映画の『阿片戦争』に助演する。
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