上杉禅秀の乱・崩壊の始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 05:49 UTC 版)
「鎌倉府」の記事における「上杉禅秀の乱・崩壊の始まり」の解説
第2代鎌倉公方・足利氏満、第3代満兼期に確立された鎌倉府体制は、第4代足利持氏期(応永16年・1409年~)に崩壊に向かう。その端緒となるのが、応永23年(1416年)10月の上杉禅秀の乱であった。関東管領・犬懸上杉氏憲(禅秀)の家臣・越幡氏の所領を持氏が没収すると、禅秀は「不義の御政道」と批判して関東管領を辞職、持氏は禅秀と対立していた山内上杉憲基を新たな関東管領とした。これを不満とする禅秀は、下総の千葉氏、上野の岩松氏、甲斐の武田氏、常陸の山入氏・大掾氏、下野の那須氏・宇都宮氏の支持を得て反乱を起こす。一旦は公方・持氏は鎌倉から放逐されたが、幕府の支援により反撃し、鎌倉を奪還・禅秀勢を打ち破った。しかし、このとき多くの関東武士が禅秀を支持していた、その背景には「公方権力の絶対化にともなう新たな抑圧と統制への反発」があったと考えられる。乱を契機に、持氏を支持した新興勢力と、禅秀を支持した伝統的豪族層・国人層の対立が顕在化し、鎌倉府の権力基盤が弱体化した。かつて足利尊氏・直義兄弟が懸念した関東の不安定化が再び現実化する。
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