犬懸上杉氏とは? わかりやすく解説

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犬懸上杉家

(犬懸上杉氏 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/04 14:36 UTC 版)

犬懸上杉家(いぬがけうえすぎけ)は、室町時代関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。四条上杉家とも呼ばれる。犬懸家は一時期は上杉氏の惣領とも目された名門で、室町時代中期には関東管領となり、下総国を中心に関東全域に影響力を及ぼしたが、上杉禅秀の乱で大きく衰退した。


  1. ^ [1] 犬懸橋 - 鎌倉タイム
  2. ^ [2] 足利公方邸跡 - 鎌倉タイム
  3. ^ 湯浅学『関東上杉氏の研究』岩田書院〈中世史論集1〉、2009年5月、254頁。 犬懸上杉氏系図。
  4. ^ 「上杉家御年譜23」上杉家系図P20
  5. ^ 片桐昭彦 著「山内上杉氏・越後守護上杉氏の系図と系譜」、峰岸純夫; 入間田宣夫; 白根靖大 編『中世武家系図の史料論』高志書院、2007年10月、225-226頁。 上椙系図大概。
  6. ^ 「上杉系図」上杉朝房(『続群書類従』 第六輯下 70頁)。
  7. ^ 黒田 2013, p. 144, 山田邦明「犬懸上杉氏の政治的地位」.
  8. ^ 越後上杉家・上杉朝方の子。
  9. ^ 定長の弟とも。
  10. ^ 米沢藩士分領家・長尾景光の3男。
  1. ^ 討死した年、場所、年齢が上杉系図によって記載が異なる。
    • 憲藤 犬懸元祖・修理亮・中務少輔 「歴応元年1338年)3月15日於信州討死、三十一歳、法名長興寺殿古岩道淳」[3]
    • 憲藤 中務少輔 称四条上杉 「建武三年 (1336年)3月15日 於渡部河為尊氏防敵隕命年廿一法名道淳古岩」[4]
    • 中務少輔 憲藤 「建武三年 (1336年)3月15日、 於渡部河討死、廿一[5]
  2. ^ 「父(上杉憲藤)打討時、家人石川覚道抱之、于時幸松(上杉朝房)四歳、幸若(上杉朝宗)二歳、家人千坂子二歳、和久子四歳相従之、共於鎌倉成人」[6]


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