信明以前の本庄氏の流れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/06 01:48 UTC 版)
信明以前の本庄氏一族の資料・記述は限られているが、15世紀初めの時点では、上杉氏憲(禅秀)(犬懸上杉氏)に味方して、上杉禅秀の乱で敗れ、所領を没収されている事が分かっている。蛭川と阿久原牧(児玉党の基盤となった牧)も丹党の氏族である阿保氏(丹党も禅秀の味方をしたが、阿保氏は足利に属した)の所領となった。先祖が開墾した土地を奪われると言う事は、中世の武士団にとっては屈辱的な事だった。応永25年(1418年)、これに児玉党の本庄氏は抵抗する事となり、西本庄左衛門(入道して西号)は阿久原を押領する事となる。武力で抵抗を続ける本庄氏に対して第4代鎌倉公方の足利持氏は元の領主に返還する様に求めている。禅秀の乱後も武蔵国北部は足利氏の支配に対して抵抗を続けた形となる。また、15世紀中頃の永享12年(1440年)、西本庄左衛門尉が上杉憲実(山内上杉氏)の金田の陣から帰館した旨の記述があり、当時は西本庄の地を所領していたと考えられている(本庄氏系図に、元朝と元翁が左衛門を称している事から、どちらかと考えられている)。本庄氏も結城合戦に参戦していたものと見られるが、文書の内容は、本庄左衛門尉が勝手に帰ってしまったと言うものである。
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