三貨制度の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/02 03:28 UTC 版)
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は全国統一への一歩として貨幣制度の整備に着手し、慶長6年(1601年)に金座および銀座を設立し、慶長小判および慶長丁銀の鋳造を命じた。これが慶長の幣制の始まりである。 慶長14年(1609年)に幕府は三貨の御定相場として「金一両=銀五十匁=永一貫文=鐚四貫文」と定め、後の元禄13年(1700年)に「金一両=銀六十匁=銭四貫文」と改訂し、貢納金などに対してはこの換算率が用いられたが、一般の商取引では市場経済にゆだね、金一両、銀一匁および銭一文は互いに変動相場で取引されるのが実態であった。 徳川家光の時代、寛永13年(1636年)に幕府が一文銅銭、寛永通寳を本格的に鋳造に乗り出した。かくして三貨制度(金、銀、銭)が確立するが、これは既存の貨幣の流通形態を踏襲するものであった。 このように国内に三種類の通貨が同時に流通することとなり、これらの取引を円滑に行うためには通貨間の両替が必要となる。そこで1 - 2%程度の手数料を徴収して両替を行う商売が成立することになる。小判を一分判に、あるいは小玉銀を銭に換えるなど、使い勝手のよい小額の貨幣に両替する場合は切賃(きりちん)と呼ばれる手数料が発生し、少額貨幣から高額貨幣への両替手数料より割増されるのが普通であった。一方、少額貨幣を高額貨幣に両替する手数料が高額貨幣からの手数料より高くなる場合は逆打(ぎゃくうち)と呼ばれ、南鐐二朱判および一分銀を小判へ両替する場合などに逆打が見られた。 銀座の所在地はしばしば両替町と呼ばれるようになる。また金座および銀座周辺では両替屋が集中し、金銀の売買が行われた。さらに貨幣改鋳の際には、金座および銀座に代わり旧貨幣の回収、交換の業務に関わった。このように同一国内で金貨、銀貨、および銅貨がすべて無制限通用を認められた。当時、本位貨幣という概念はなかったものの、金銀銅の三貨もいずれもが事実上の本位貨幣としての価値をもって流通し、それぞれが変動相場で取引された。
※この「三貨制度の成立」の解説は、「両替商」の解説の一部です。
「三貨制度の成立」を含む「両替商」の記事については、「両替商」の概要を参照ください。
- 三貨制度の成立のページへのリンク