一括賜姓と公民化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 23:59 UTC 版)
「日本の古代東北経営」の記事における「一括賜姓と公民化」の解説
神護景雲3年3月13日(767年9月13日)、陸奥国内諸郡の住人64人に下記の新姓が与えられている。 白河郡の丈部子老、賀美郡の丈部国益、標葉郡の丈部賀例努ら10人に阿倍陸奥臣 安積郡の丈部直継足には安倍安積臣 信夫郡の丈部大庭らには阿倍信夫臣 柴田郡の丈部嶋足には安倍柴田臣 会津郡の丈部庭虫ら2人には阿倍会津臣 磐城郡の丈部山際には於保磐城臣 牡鹿郡の春日部奥麻呂ら3人には武射臣 曰理郡の宗何部池守ら3人には湯坐曰理連 白河郡の靱大伴部継人、黒川郡の靱大伴部弟虫ら8人には靫大伴連 行方郡の大伴部三田ら4人には大伴行方連 苅田郡の大伴部人足には大伴苅田臣 柴田郡の大伴部福麻呂には大伴柴田臣 磐瀬郡の吉弥侯部人上には磐瀬朝臣 宇多郡の吉弥侯部文知には上毛野道奥公 名取郡の吉弥侯部老人、賀美郡の吉弥侯部大成ら9人には上毛野名取朝臣 信夫郡の吉弥侯部足山守ら7人には上毛野鍬山公 新田郡の吉弥侯部豊庭には上毛野中村公 信夫郡の吉弥侯部広国には下毛野静戸公 玉造郡の吉弥侯部念丸ら7人には下毛野俯見公 この一括賜姓は、陸奥大国造道嶋嶋足が朝廷へと働きかけたことによるものであった。 神護景雲3年11月25日(769年12月27日)、牡鹿郡の俘囚大伴部押人が「大伴部一族は紀伊国名草郡片岡里の出身で、先祖の大伴部直が征夷に従軍して小田郡嶋田村に居住したが、子孫は蝦夷によって虜にされたので代々俘囚として扱われるようになった」とし、俘囚からの調庸の民(公民)になることを請願して許可された。神護景雲4年4月1日(770年4月30日)、今度は黒川以北十郡に住む俘囚3920人が押人と同様の請願をおこない、3920人全員が公民となっている。請願した3920人は戸や世帯の代表者の男子の可能性が高く、背後には家族である老若男女がいたことになり、おそらく万単位の人数が俘囚の身分を免じられて公民として処遇を受けるようになった。 樋口知志は、黒川以北十郡では俘囚身分が事実上消滅したものと考えてよく、他方では本拠地名に公のカバネを合わせた姓を持つ蝦夷身分の蝦夷族長層はその後も公民身分に編入されぬまま残されたものと推測している。
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