ヴェルブジュドの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/23 23:20 UTC 版)
「ミハイル3世シシュマン」の記事における「ヴェルブジュドの戦い」の解説
詳細は「ヴェルブジュドの戦い」を参照 1329年の東ローマとの同盟の締結後、セルビア軍がオフリドで略奪を行う中、ミハイル3世は遠征の準備を進める。セルビアの年代記は、ミハイル3世がウロシュ3世に服従を強く求め、「セルビアの中心に私の玉座を置こう」と脅迫したことを伝えている。 1330年、南からセルビアに進軍するアンドロニコス3世の軍と共に、ミハイル3世はワラキア、モルダヴィアなどの同盟国の軍を含む15,000の兵士を率いて遠征を行った。最初ミハイル3世はヴィディンに向かい、ヴィディンに至った後に南下したが、多くの歴史家たちはミハイル3世がヴィディンに向かった理由を兄弟のベラウルの軍と合流するためだと考えている。しかし、ブルガリア軍と東ローマ軍との連携は不足しており、ヴェルブジュド(現在のキュステンディル)近郊で15,000のセルビア軍と遭遇する。双方とも援軍の到着を期待し、ミハイル3世とウロシュ3世は会談の場をもち、1日の休戦に合意した。休戦協定が結ばれた後、ミハイル3世は軍隊を分散して不足していた食糧を捜索させる。 しかし、1330年7月28日の朝、セルビア軍の本隊の元に王子ステファン・ドゥシャンが率いるカタルーニャ騎兵隊が合流すると、セルビア軍は協定を破ってブルガリアに攻撃をかけた。不意の攻撃にもかかわらず、ミハイル3世は軍隊の秩序を回復させるがすでに遅く、戦闘はセルビアの勝利に終わった。 この戦闘の結果、ブルガリアは領土を喪失することは無かったものの、新たなバルカン半島の勢力図が形成され、セルビアはマケドニアの大部分を手中に収めた。
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