シシュマン家の皇帝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 07:29 UTC 版)
「第二次ブルガリア帝国」の記事における「シシュマン家の皇帝」の解説
1323年にヴィディンのデスポット(封建領主)・ミハイル・シシュマンが貴族に推戴されて帝位に就く。新たな皇帝に選出されたミハイル3世は、北トラキア、ザゴラ、黒海沿岸部に侵入した東ローマの軍を撃退し、1324年にブルガリアと東ローマの間で結ばれた和約でこれらの地域を回復した。往時のブルガリアの勢力を回復するため、ミハイル3世は東ローマ帝位を巡って争うアンドロニコス3世とその父のアンドロニコス2世の両方に支援を行い、1327年にはコンスタンティノープルの占領を企てたが計画は失敗に終わった。1328年に内戦を制したアンドロニコス3世が正式に帝位に就くと、ブルガリアの失地回復の可能性は絶たれた。 しばらくの間ブルガリアと東ローマの戦争は続くが、マケドニアで勢力を拡大するセルビアに対抗するため、1329年に両国の間に同盟が結ばれた。東ローマと同盟を結んだミハイルはセルビアに進攻するが、1330年にヴェルブジュドの戦いでブルガリア軍はステファン・ウロシュ3世デチャンスキが率いるセルビア軍に大敗し、ミハイル3世は戦死した。戦後セルビア王家の血を引く皇子イヴァン・ステファンのブルガリア皇帝即位を条件として、ブルガリアとセルビアの間に和平が結ばれた。一方、ブルガリアの敗北を知ったアンドロニコス3世は同盟を破棄して南ブルガリアに進軍し、ソゾポリス(現在のソゾポル)、メセンブリア(現在のネセバル)などの黒海沿岸部の都市を占領下に置いた。 新たに即位したイヴァン・ステファンには政務の経験が無く、また多くの貴族はイヴァン・ステファンをセルビア側の人間とみなしていた。1331年にタルノヴォの貴族ラクシンとフィリップのクーデターによってイヴァン・ステファンは廃され、ミハイル・シシュマンの甥であるロヴェチのデスポット・イヴァン・アレクサンダルが皇帝に選出される。
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