レーシングチーム監督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 00:56 UTC 版)
1986年から前出のRacing team KATAYAMAで監督として全日本ロードレース選手権に本格参戦。国際A級を目指す国内の若手・堀良成、鈴木博之、鈴木淳を抜擢、ジュニア250ccクラスへの参戦チームとしては異例の恵まれた体制で市販RS250を用意して参戦させ、国際A級250ccクラスには世界選手権(WGP)への進出を熱望していた喜多祥介、ベテランの菊池正剛、新井亮一という体制でRS250にて参戦。世界選手権250ccクラスへはフランス人のベテランジャン・フランソワ・バルデを起用。負傷により長期欠場してはいたが、片山以来のグランプリ優勝の期待があった1983全日本チャンピオン・福田照男をワークスマシンNSR250で参戦させる体制を作った。福田は負傷に苦しみ戦列復帰できず現役引退を発表し、代わりにシーズン途中からイタリアのベテランバージニオ・フェラーリが加入。WGP500ccにはレイモン・ロッシュを起用しNS500で参戦。東亜国内航空(全日本選手権)やロスマンズ(世界選手権)のスポンサードもあり、バルデが世界ランキング5位、ロッシュがランキング7位を獲得。 1987年になるとWGP250にステファン・メルテンスとドニー・マクレオドを起用し、オリジナルのカーボンフレームにホンダエンジンを搭載したマシン「SEKITOBA」を投入しての実戦や開発にも着手。国内では同年に国際A級に昇格した堀と鈴木が安定感を増し、1988年になると全日本選手権の年間ランキング3位(堀良成)と5位(鈴木淳)を獲得などチーム運営はいくつかの成功を経たのち、数年で解散。日本人最後の「コンチネンタルサーカス」具現者。
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