レーシングチーム監督として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/06 05:55 UTC 版)
「兼子眞」の記事における「レーシングチーム監督として」の解説
チェッカーモータースは会社でチェッカー・モータースポーツ・クラブを持っており、JAFの公認クラブ(加盟クラブではなくレースを主催できる)として筑波や富士でJAF公認のレース、選手権シリーズが掛かったレースを開催していたが、兼子眞はそれとは別に個人のチームFLATOUTを所有しており、そのオーナー兼監督を務めていた。FLATOUTは、国内最高峰となる全日本選手権レースに参戦するプロチームとして発足。ドライバーは1983年に関谷正徳。1984年(昭和59年)より鈴木亜久里を採用し現在のフォーミュラ・ニッポンの前身であるF-2、富士GCに参戦。1986年(昭和61年)には太田哲也との2台体制を確立し富士GC、F-3000に参戦するなど、デイブ・スコットやラッツェンバーカー、アンデルス・オロフソン等を含む多くの一流ドライバーを起用し、輝かしい成績を収めた。また1998年(平成10年)5月、太田哲也が多重事故に巻き込まれて瀕死の重傷を負った全日本GT選手権第2戦(富士スピードウェイ)で監督を務めていたのも兼子眞であり、太田哲也本人によるドキュメンタリー映画「クラッシュ」の中でも事故当時のことを語っている。そして、奇跡の生還を果たした太田哲也が過酷な治療とリハビリを乗り越えて挑んだ復帰レース「アルファチャレンジカップ・ユーロカップ」(2003年〈平成15年〉/アルファ・ロメオのワンメイクレース)で監督を務めたのもまた兼子眞である。
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