レスルザーデ体制下
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「ミュサヴァト党」の記事における「レスルザーデ体制下」の解説
ロマノフ朝300周年記念(ロシア語版)に際した1913年の大赦によって、ラスールザーデはアゼルバイジャンへ戻った。当時の党はまだ公の存在ではなかったにもかかわらず、ラスールザーデは党の目標を自身の解釈によって定義した『公論』(az) 紙を1915年から1918年まで発行させ、それは二月革命直後に党が合法化されてからは正式に党の機関紙となった。 革命直後のミュサヴァト党は、ムスリム社会組織バクー委員会と同様に、極めて先鋭的だった。彼らはムスリムの権利を保障する民主的な共和国を望んだ。ソ連の歴史家であるA・L・ポポフは、「ムスリム社会組織バクー委員会とミュサヴァト党は革命のある時期までは、国家の利益全般を代表するのみならず、アゼルバイジャンの労働者の民主主義を防衛する役割をも果たしていた」として、ミュサヴァト党が民主主義と社会主義の両方の立場を取っていたことを指摘し、ベイとハーンによる反動勢力であるとアプリオリに見なすことはできない、とした。 1917年6月17日、ミュサヴァト党は、ナシブ・ベイ・ユシフベイリ(ロシア語版)とハサン・ベイ・アガエフ(英語版)が率いた国内の国家民主主義的右翼政党であるテュルク連合党 (az) と合併し、テュルク連合ミュサヴァト党 (Türk Ədəmi-mərkəziyyət firqəsi Müsavat) と改称した。そして党はカフカースのムスリムの一大政治勢力となった。同年10月に召集された第1回党大会において新たな党則が採用され、それは76の記事に掲載された。その党則にはこうある。 ;第1条:ロシア国家の形態は、民族自決の原則に基づく連邦制民主共和国でなければならない。第3条 ロシアのどの領域においても小域でも居住地を持っているすべての民族に対して、自決権が適用されるべきである。アゼルバイジャン、キルギスタン、トルキスタン、バシコルトスタンに対しては自決権が与えられるべきであり、ヴォルガとクリミア一帯に居住するテュルク人に対しては、領土的な自決権が不可能な場合にも文化的な自決権が与えられるべきである。自決権を求めるすべての非テュルク民族を支援することは、党の神聖な義務である。 第4条 小域でも具体的な居住地を有していない民族に対しても文化的な自決権が与えられるべきである。 1918年の全ロシア憲法制定議会(スペイン語版)では、ミュサヴァト党は10番目に大きな勢力となった。
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