レジサイドの扱い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 23:41 UTC 版)
「レジサイド (チャールズ1世)」の記事における「レジサイドの扱い」の解説
1660年、イングランド議会は内戦や空位時代に議会に協力した多くの者たちに恩赦を与える免責・大赦法を可決した。ところが、特定の104人については赦免の対象外とされた。うち49人(および名前不明の死刑執行人2人)は、免責・大赦法第34条で名指しで対象外と認定された。別の6人も免責・大赦法第39条で、生命は奪われないという条件付きで赦免の対象外となった。英国人名事典に寄稿しているハワード・ネナーによれば、チャールズ2世自身はこれほどの数の人々を処刑するつもりはなかったが、むしろ議会が「王殺し」への強硬な処罰を求めていたという。 処罰される者の名簿に載せられたうち、24名はすでに没していた。主な者としては、オリバー・クロムウェル、ジョン・ブラッドショー(チャールズ1世裁判の議長)、ヘンリー・アイアトン(クロムウェルの娘婿)などが挙げられる。これらの者については死後処刑、すなわち遺体を墓場から掘り返して絞首・斬首し、体は絞首台の下の穴に投棄されるという刑が科せられた。落とされた首は、かつてチャールズ1世裁判が行われたウェストミンスター宮殿のスパイクに突きさして晒された。1660年のうちに、10人(うち6人はチャールズ1世裁判の判事)が王殺しの罪により処刑された。うち1人は斬首刑、残りの9人は首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑にかけられた。1660年10月15日のサミュエル・ピープスの日記には、「今朝、カリュー氏がチャリング・クロスで絞首され四つ裂きになった。しかし非常な好意により、彼の四片は晒し上げられないことになった」とある。また5日後の日記では「我らの新たな反逆者たちの手足がアルダーズゲートの上に置かれているのを見た。見るも痛ましい光景だった。この血生臭い週間に、最終的に10人が首を吊られ、内臓を抉られ、四つ裂きにされた」と書いている。1662年、新たに3人のレジサイドが首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑に処された。一部の者が赦免された一方で、19人が新たに終身刑を言い渡された。ほとんどのレジサイドは財産を没収され、職を追われたり爵位をはく奪されたりした。また21人はブリテン島から逃れ、そのうちの多くはネーデルラントやスイスに亡命したが、数人は捕らえられイングランドに送還されたり、王党派に好意的な者によって暗殺されたりした。ジョン・ディクスウェル、エドワード・ホエーリー、ウィリアム・ゴフという3人のレジサイドは新大陸のニューイングランド自治領に逃れ、逮捕を免れた。ニューヘイブンには彼ら3人を記念した3本の主要道路が残っており(ディクスウェル・アヴェニュー、ホエーリー・アヴェニュー、ゴフ・ストリート)、他にも彼らにちなんだ地名がコネティカットの諸都市に散見される。 ネナーによれば、このレジサイドのリストに名前を載せた明確な基準は分かっていない。また当時の免責・大赦法の内容には、処刑にかかわった者たちを指す言葉としてもレジサイドという語が見られない。そのため、「レジサイド」に含まれる人物の範囲の認識は歴史家によって異なっている。 スコットランドでも王政復古の後に免責・大赦法が成立した。内容はイングランドの免責・大赦法と似ているが、それよりも多くの者が赦免の対象外とされていた。ただスコットランドの例外リストのみに名が挙がった者のほとんどは金銭的な問題により有罪とされたもので、その中で処刑されたのは4人のみ、それも反逆罪ではあるが王殺しの罪ではない。これにより処刑された者の中にはアーガイル侯爵アーチボルド・キャンベルがいる。彼はクロムウェルの政府と協力した罪により、1661年5月27日に斬首された。
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