レギッルス湖畔の戦い
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「ティトゥス・ヘルミニウス・アクィリヌス」の記事における「レギッルス湖畔の戦い」の解説
詳細は「レギッルス湖畔の戦い」を参照 紀元前498年、ローマとラテン人の間に戦争が発生する(第一次ラティウム戦争)。王政ローマ末期、多くのラテン都市はローマと同盟を結んでおり、共和政になっても同盟を維持する都市もあったが、復位を狙うタルクィニウスを支援する都市もあった。ラテン同盟側はトゥスクルム(en)の王子でタルクィニウスの義理の息子であるオクタウィウス・マミリウス(en:Octavius Mamilius)が軍の司令官となった。これに対処するため、ローマはアウルス・ポストゥミウス・アルブス・レギッレンシスを独裁官(ディクタトル)に任じ、ティトゥス・アエブティウス・ヘルウァが騎兵長官(マギステル・エクィトゥム)となった。ヘルミウスもローマ軍の将軍として出征し、両軍はレギッルス湖近くで激突した。 戦いの中で、アエブティウスは馬上からマミリウスを認めた。両者は怒りをもって戦い、両者とも重傷を負った。アエブティウスは戦場から離脱して後方から騎兵を指揮せざるを得なくなった。他方マニリウスも一旦は後退したが、亡命ローマ人で編成された部隊がポストミウスに突破されようとするのを見て、これを救うために戦場に戻った。これをヘルミニウスが見つけた。 ヘルミニウスは突進したが、ティトゥス・リウィウスによればその怒りはアエブティウスのそれよりもはるかに激しいものであった。ヘルミニウスはマニリウスを腹部への一撃で討ち取った。続いてマニリウスの甲冑を剥ぎ取ろうとしたが、そのとき投槍を受け瀕死の重傷を負った。ヘルミニウスは後方に運ばれて治療を受けたものの、傷が元で死亡した。
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レギッルス湖畔の戦い
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「ティトゥス・アエブティウス・ヘルウァ」の記事における「レギッルス湖畔の戦い」の解説
詳細は「レギッルス湖畔の戦い」を参照 共和政ローマの設立以来、ローマとラティウム同盟の間の敵意が増加し、戦争の可能性が高まっていた。ヘルウァが執政官を務めた翌年の紀元前498年、戦争に備えてアウルス・ポストゥミウス・アルブス・レギッレンシスが独裁官(ディクタトル)となり、ヘルウァはそのマギステル・エクィトゥム(騎兵長官)となった (リウィウスは同年の前499年としている)。両者はラティウムに侵攻し、トゥスクルム(en)の独裁官オクタウィウス・マミリウス(en)が率いるラティウム同盟軍と戦闘となった。 戦闘の途中、ヘルウァとマミリウスはお互いを馬上に認め、一騎打ちを行ったが両者共に負傷した。マミリウスは胸に傷を負い後方に退いたが、ヘルウァもマミリウスの槍で腕に重傷を負い、後方から軍の指揮を執らざるをえなくなった。この後マミリウスはティトゥス・ヘルミニウス・アクィリヌスに討ち取られるが、アクィリヌスも戦死した。戦争はローマの決定的勝利に終わった。
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