リビングストンとの接触
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 07:04 UTC 版)
「ボツワナの歴史」の記事における「リビングストンとの接触」の解説
ボツワナを訪れた最初の宣教師はプロテスタント系のロンドン伝道協会に属していたロバート・モフェット、1820年のことである。しかしツワナ人への布教は失敗に終わった。ヨーロッパ人はイスラム以外のアフリカ人は抽象的な思考をもたず、キリスト教の福音をすぐさま受け入れると考えていた。しかしツワナ人においては、生命力概念を中核とした人間(ムンツー)中心のバンツー哲学に通暁しており、生活習慣、文化と密接な関係をもっており、これを退けることは難しかった。20世紀末の現在においても統計上は国民の60%がキリスト教徒となってはいるが、定期的に教会に顔を出すものは20%以下であり、どのような宗教的な助言を受け入れるかという視点から見ると、大部分が伝統的宗教に属する。 モフェットの後を継いだのは義理の息子であるデイヴィッド・リヴィングストンであった。リヴィングストンは他の探検家、宣教者とは異なり、少なくとも表面的にはアフリカ人と対等に付き合った。1857年に出版されたリヴィングストンの「南アフリカにおける布教のための旅と探索」によると、1852年にベチュアナ人(ツワナ人)が領域防衛、奴隷狩り阻止のため、指導者セチュレの元にボーア人との最初の戦闘を起こし、ボーア人を撃退した。ボーア人はリヴィングストンがツワナ人を煽動したと疑っており、彼の資産を奪い、書物を盗み出したともある。 リヴィングストンはツワナ人と良好な関係にあり、直接的な報復を受けなかったのはツワナ人による庇護のためだと考えていた。これと前後して、8部族の1つクウェナの首長シケレ1世はリヴィングストンから洗礼を受けキリスト教徒となった。シケレ1世は宗教心からというより、イギリス人を頼り、なんとかボーア人と対抗することを考えていた。
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