リチャード・アークライトとケイ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/12 15:09 UTC 版)
「ジョン・ケイ (紡績機)」の記事における「リチャード・アークライトとケイ」の解説
アークライトがケイと彼の紡績機のアイディアを拾い上げて、ケイと共に紡績機を作り上げ、後に水紡機(water frame)を生み出すにいたるような仕事へと発展させた。水紡機は、ケイやハイズの名前なしに、ほとんどアークライト1人の功績と称えられている。 1767年、かつらを製造販売していた起業家のリチャード・アークライトは、ケイの時計職人としての腕を買い真鍮製ホイールを作らせた(表面上は「永久機関」を作ろうとしたものとされている)。6カ月後、ケイがウォリントンに戻った後、アークライトは彼を説得してローラーを使った紡績機を作らせた。1767年にケイがアークライトのために作った試作機がその後の紡績機の元になった。 1780年代の特許訴訟以降、様々な主張がなされた。アークライトがケイと会う前からその設計を思い浮かべていたという説、ケイがハイズのアイデアを盗んでアークライトに伝えたという説、ケイが機械を組み立てただけでなく設計も行ったとする説がある。 ケイの試作品の実用性に納得したアークライトは、1768年にプレストンに場所を移し、表向きは経度測定器を開発していると称し、ケイに紡績機を改良させた。作業場で何をしているかは秘密で、しかも奇妙なハミングノイズが聞こえてくることから、魔女術を行っていると告発されたことがある。アークライトはまだ裕福ではなかったが、ケイを「使用人」として連れてきており、21年間雇用するためと秘密を守ってもらうためにケイには債権を与えていた。 その後ノッティンガムに移り、1769年に彼らの考案した機械を使った工場を建設。同年、アークライトが特許を取得しているが、そこにケイの名はなかった。ノッティンガムの発明家ジェームズ・ハーグリーブスからその特許のことを聞いたケイは、自分こそが真の発明者だとハーグリーブスに伝えた。アークライトはケイがハーグリーブスに設計を漏らしたとして告発し、2人は袂を分かった。ケイも負けじとアークライトが工具を盗んだと告発し、アークライトも反訴した。最終的にケイはアークライトのノッティンガムの家から出て(それまでそこに住んでいた)、完全に2人の関係は解消された。
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