リクルート事件、自殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 02:10 UTC 版)
竹下が首相に上り詰めた後の1988年、リクルート事件が勃発する。竹下も未公開株であるリクルートコスモス株の名義人になっていたため、国会で追及を受ける。1989年4月10日、翌日の集中審議への対策として青木と小沢一郎官房副長官が打ち合わせを行い、リクルート社による資金供与の総額を1億5100万円で確定、翌11日の集中審議で竹下が「今後、これ以上出てくることはない」と断言した。 しかし、リクルート社から竹下に対しては、1億5100万円の他に、5000万円の献金の申し出があった。しかし青木はこれ以上は受けられない、と返答して5000万円を貸付金として処理し、事件発覚時には既に返却していた。青木が受けた事情聴取では事務所の出納記録を確認した佐渡賢一が「事件性無し、シロ」と判断、公表の有無については竹下側の判断であると返答されたため、この分は含まずに公表していた。ところが21日に取り調べ内容が朝日新聞にリークされ、同日夜に取材がやってきた。事態を楽観視していた青木は重大性に気付き、22日早朝に竹下邸に弁明に訪れたが、この際普段は「感情を表に出さない」ことをモットーにしていた竹下が大激怒、声を荒らげて青木を叱責したと言われ、相当な心労を受けたとされている。この日の取り調べでは平和相互銀行事件について詳しい説明を求められ、青木は金丸信に電話で報告をした際「もう、かないません。辛抱ならん」とこぼしている。朝日新聞が同日夕刊で新たな貸付金のスクープを報じ、竹下批判の声はさらに高まった。 25日、竹下は記者会見で退陣を表明する。青木はこの日も事情聴取の予定であったが、多忙を理由に回避していた。この頃、青木は記者の取材を避けて夫人と外泊を続けており、夕食後にホテルを出て、竹下邸に向かった。しかし玄関前に取材記者が大勢いたため入れず、近くの公衆電話から竹下事務所に連絡をし、そのまま消息を絶った。 26日、自宅の寝室で首吊り自殺を遂げたところを夫人に発見された。ベッド脇には、夫人や竹下に宛てた遺書が4通残されていた。
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