ララとリリー・マルレーン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 09:10 UTC 版)
「ララ・アンデルセン」の記事における「ララとリリー・マルレーン」の解説
1939年、ミュンヘンのキャバレーに出演していた際にララはひとつの歌に出会った。ハンス・ライプ(1893年 - 1983年)の詩にノルベルト・シュルツェ(1911年 - 2002年)が曲をつけた歌「リリー・マルレーン」である。ララはこの曲をレコーディングしたが、当時は約700枚がリリースされただけであり、60枚しか売れなかったと言われている。しかし、販売店に山積みになっていた売れ残りのレコードから、店員がドイツ軍の前線慰問用レコード200枚の中に2枚紛れ込ませた。それが1941年の秋に初めて流され、以後放送で繰り返しかけられて人気を得た。ナチス・ドイツ占領下のベオグラードラジオが所蔵する数少ないレコードの中の1枚であった。 しかし、恋人たちの別離を歌った陰鬱な歌詞が士気に悪影響を及ぼすとして、ナチス政府の宣伝相ゲッベルスはこの曲を嫌悪し、ラジオ放送を禁止とする処分を下した。それでも戦地での兵士の人気は一向に衰えず、なぜラジオで流れないのかという問い合わせが多数寄せられたため、ベオグラード・ラジオは放送終了直前、毎晩21時57分に「リリー・マルレーン」を流す決定をした。毎晩21時57分になると、戦場ではドイツ軍、連合国軍を問わず、兵士たちはラジオをつけて聴いていた。 「リリー・マルレーン」を取り上げられ、チューリッヒで親しくなったリーバーマン初め多くの音楽家たちがユダヤ人であったこともあり、ララは歌手活動を禁じられてしまい、自殺を図るが未遂に終わる。9ヶ月後、歌手活動の再開を許可されたものの、ララは帝国文化院(Reichskulturkammer)の監督下に置かれ、「リリー・マルレーン」を歌うことは許されなかった。ゲッベルスの命令で「勇壮なドラム伴奏を付けた軍歌版」の「リリー・マルレーン」を新たに作ったほか、終戦までの活動としてはプロパガンダに関するものばかりで、映画への出演が1本と英語で何曲か歌うのみであった。しかし「リリー・マルレーン」は、マレーネ・ディートリヒが曲をカバーして米軍を慰問したこともあり、アメリカにも広まっていった。
※この「ララとリリー・マルレーン」の解説は、「ララ・アンデルセン」の解説の一部です。
「ララとリリー・マルレーン」を含む「ララ・アンデルセン」の記事については、「ララ・アンデルセン」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書からララとリリー・マルレーンを検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書からララとリリー・マルレーン を検索
- ララとリリー・マルレーンのページへのリンク