ラデ沖の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/12 03:25 UTC 版)
詳細は「ラデ沖の戦い(英語版)」を参照 カリアなどでは局地的な勝利があったものの、反乱軍はペルシア軍に圧倒された。首謀者のアリスタゴラスは反乱の失敗を予見し、トラキアを占拠してミュルキノスに逃亡しようとしたが、その途上、トラキア人によって殺されてしまった。紀元前494年、ダレイオス1世は、ミレトス討伐のため、本格的に陸海軍を派遣した。反乱軍はイオニアで会議を開き、艦隊のみを編成してミレトス沖のラデ島の海域で決戦を行うことを決めた(ラデ沖の戦い(英語版))。 ペルシア海軍は、フェニキア船団を中核として、キプロス島、エジプトなどから集めた船で艦隊を編成してラデ島沖に侵入、ポカイア部隊の司令官ディオニュシオス率いるイオニア反乱軍と対峙した。デュオニュシオスは、三段櫂船による船間突破戦法の訓練を行ったが、ミレトス人は訓練が厳しすぎると言って放棄した。サモス島の援軍はこれを見て、同盟を破棄することを決意した。彼らは戦闘が始まると早々に戦線を離脱した。レスボス島の部隊もこれに倣った。ヒオス島の船団のみがペルシア艦隊と果敢に戦ったが敗退、島嶼諸国の優秀な海軍を失ったミレトスの中核部隊は、ペルシア艦隊によって粉砕された。 ラデ沖の戦いによって反乱軍は崩壊した。戦闘を離脱したサモス島を除いて、敗北したイオニアと島嶼の諸都市は、徹底的に略奪された。
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