ラデン・パターの統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/05 23:59 UTC 版)
「ドゥマク王国」の記事における「ラデン・パターの統治」の解説
マジャパヒト王国が衰退し始めたときにジャワ島北海岸地方の領主の多くは、ドゥマク王国を盟主とする連合体を作った。ラデン・パターは1500年から1518年までドゥマクを統治し、米を中心とする広大な農地を有していたために王国は急速に発展した。輸出産物としては米、蝋、蜂蜜などがマラッカ、マルク、サムドゥラ・パサイへと輸出された。 王国は、イスラム教の布教の中心サムドゥラ・パサイとの友好を深め、ワリ・サンガによるイスラム教の布教の新たな中心として発展した。王国の支配地域は、ジュパラ(インドネシア語版)、トゥバン(英語版)、スダユ、パレンバン、ジャンビ、カリマンタンのいくつかの地方に及んだ。マルク地方での布教はスナン・ギリ(英語版)(Sunan Giri)によって行われ、東カリマンタン地方への布教はトゥンガン・パランガン(Tunggang Parangan)という名のドゥマクの宗務官(penghulu)たちによって援助された(東カリマンタンの歴史(インドネシア語版))。 1511年、マラッカ王国がポルトガルの手に落ちると、ドゥマクとマラッカとの関係は断絶した。1513年、ラデン・パターは長男のアディパティ・ウヌス(インドネシア語版)(Adipati Unus)にポルトガル領マラッカ(英語版)(1511年 – 1641年)のポルトガル人を攻撃するように命じた。ポルトガル側の軍備が優れていたために成功しなかったが、この攻撃を行ったことによりアディパティ・ウヌスには「北へ海を渡った王子」という称号が与えられた。
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