ラックガム=ソアイムットの戦い
ラックガム=ソアイムットの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 22:46 UTC 版)
「西山朝」の記事における「ラックガム=ソアイムットの戦い」の解説
詳細は「ラックガム=ソアイムットの戦い」を参照 景興37年(1776年)に阮福暎はフランス人宣教師ピニョー・ド・ベーヌに子の阮福景を人質として差し出すことにより加勢を頼んだ。嘉定は阮福暎は一度は占領されたが、すぐに西山軍が奪回して阮福暎は富国島へ逃亡した。また阮福暎はシャムチャクリー王朝のラーマ1世から水兵2万(一説には5万)・船300隻の援軍を得た。メコンデルタの中国人勢力も阮福暎に味方した。 泰徳7年12月9日(1785年1月19日)、阮恵率いる西山軍と阮福暎・シャム連合軍はメコン川中流、美湫付近の瀝涔から𣒱𡃙(ベトナム語版)で戦陣を切った。メコン川に遡上する海水の満干の差を読んだ作戦により、翌朝にはシャム軍はほぼ壊滅。主力を失った阮福暎の軍は潰走した。これ以降、シャムがベトナムの領土へ侵攻することは絶えた。
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