ラジョイとインディアンスとは? わかりやすく解説

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ラジョイとインディアンス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 07:59 UTC 版)

クリーブランド・ガーディアンズ」の記事における「ラジョイとインディアンス」の解説

1900年当時マイナー・リーグであったウエスタン・リーグアメリカン・リーグ改称した時にミシガン州グランドラピズを本拠地としていたチームクリーブランド移転させたことでチームの歴史始まった。翌1901年マイナー・リーグであったアメリカンリーグメジャー・リーグ宣言すると、クリーブランド・ブルーバーズという名前で、リーグ創設以来球団となった初年度1901年こそ、5478敗と負け越しリーグ7位で終わってしまったが、翌1902年にクリーブランド・ブロンコスと改め、そしてこのシーズン途中に、フィラデルフィア・アスレチックス(現:オークランド・アスレチックス)からナップ・ラジョイ獲得した。ラジョイは期待たがわぬ活躍チーム牽引しファンから絶大な人気誇ったこの年一般公募によって、チーム名クリーブランド・ナップス改めて、1905年にはラジョイが選手兼任監督就任し文字通りラジョイのチームとなった。 ラジョイは1903年1904年2年連続首位打者獲得し監督退いた後の1910年には、タイ・カッブ首位打者獲得したものの、打率.384で打率1位を記録している(当時の記録では、カッブがラジョイの打率わずかに上回っていたが、後にカッブ記録誤りが見つかり、カッブ打率は.383となった。しかし公式な首位打者カッブのまま変更はされなかった)。他にもアディ・ジョスエルマー・フリックといった選手活躍しチーム勝ち越し続けるものの、なかなか優勝には手が届かなかった。 1909年サイ・ヤングクリーブランド復帰し42歳という高齢にもかかわらず防御率2.26・1915敗という成績残した。翌1910年には、アスレチックスくすぶっていたジョー・ジャクソン獲得1911年には打率.408を記録し1912年1913年2年連続最多安打放った。しかし、この頃にはジョス急死ヤング移籍投手陣脆弱なものとなり、チームは更に低迷した。ついに1914年には、51102敗と大きく負け越し最下位になってしまった。翌1915年には、ラジョイが古巣フィラデルフィア・フィリーズ復帰し1915年シーズン途中には、ジャクソンシカゴ・ホワイトソックス移籍したことで、5795敗と2年連続大きく負け越したこの年には、チーム名クリーブランド・インディアンス変わっている(この名前の由来MLB初のインディアンプロ野球選手であり、1897年から1899年までスパイダーズで活躍したルイス・ソカレキス敬意表してつけられといわれる)。

※この「ラジョイとインディアンス」の解説は、「クリーブランド・ガーディアンズ」の解説の一部です。
「ラジョイとインディアンス」を含む「クリーブランド・ガーディアンズ」の記事については、「クリーブランド・ガーディアンズ」の概要を参照ください。

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