ユーロビジョン・ソング・コンテスト1964
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ユーロビジョン・ソング・コンテスト1964 | |
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日程 | |
決勝 | 3月21日 |
主催者 | |
会場 | ![]() チボリコンサートホール |
司会 | ロッテ・ウェーバー |
指揮者 | カイ・モーテンセン |
主催放送局 | ![]() |
幕間演技 | Ballet-harlequinade |
参加者 | |
参加国数 | 16 |
新規参加 | ![]() |
撤退 | ![]() |
投票 | |
無得点 | ![]() ![]() ![]() ![]() |
優勝曲 | ![]() 夢みる想い |
ユーロビジョン・ソング・コンテスト | |
◄1963 ![]() |

ユーロビジョン・ソング・コンテスト1964こと第9回ユーロビジョン・ソング・コンテスト(Grand Prix Eurovision 1964)は1964年3月21日(土曜日)にデンマーク・コペンハーゲンのチボリコンサートホールで開催された。
プレゼンター:ロッテ・ウェーバー(使用言語:デンマーク語、英語、フランス語)。音楽監督のカイ・モーテンセンは、デンマークとポルトガル代表の指揮を担当。フランスは フランク・プゥルセルが6年連続で、モナコは ミシェル・コロンビエが担当した。放送時間:1時間30分。製作:DRデンマーク放送協会。
この大会のオリジナル記録映像は、DRが1970年にDRで火災にあって焼失したため現存しない。
参加国
16ヶ国のネットワーク。
- ポルトガルが初出場。しかし、当時のポルトガルとスペインは軍事政権下だったために、「フランコ、サラザール反対!」を叫ぶ男が会場に乱入する騒ぎが起こった。このため、大会は一時中断を余儀なくされた。
- スウェーデンは出場歌手がボイコットを表明し参加を見送ったが、SRスウェーデン・ラジオ&テレビは中継放送を中止しなかった。
- この大会からグループ参加が認められ、スペイン代表が3人組グループで出場した。
- オランダは、旧植民地だったインドネシア出身者アンネケ・グレンロを代表として選出。初めての非ヨーロッパ系の歌手の出場となった。
- オーストリア代表ウド・ユルゲンスは弾き語り用のピアノを配した最初の出場者となった。
ネットワーク
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( )内数字は参加回数
投票方式
投票方式が更に変更になった。 各国審査員が各20名で持ち点は各人9点。お気に入り3曲に配分するというもので、配分方法は、5-3-1でも6-3-0、9-0-0でも良かった。各放送局は、その得点を集計し順位を決定。1位=5点、2位=3点、3位=1点として会場に連絡した。 1国の持ち点が僅か9点で、投票先も3ヶ国に絞られるため、集計結果の明暗は大きく分けられることになった。
結果
優勝はイタリアのジリオラ・チンクェッティ「夢みる想い」。ベルギー、ユーゴスラビア、ポルトガル、イギリス、オーストリア、フインランド、ルクセンブルク、オランダの8ヶ国が5点を投じた。会場での反響があまりにも大きかったため、歌唱後ジリオラが観衆に挨拶する時間が特別に与えられた。これは大会史上唯一のことであった。
同曲はサンレモ音楽祭でも優勝しているため、二冠となった。また、英語版、フランス語版、スペイン語版、ドイツ語版、日本語版も録音・レコード発売されヒット。商業的にも大成功を収めることになった。
その一方、無得点国が4ヶ国出た。その一つが、ボイコット騒ぎの原因となったポルトガル。それに、ドイツ、ユーゴスラビア、スイスがこれに加わった。尚、スペインは、イタリアが1点を投じたため、かろうじて最下位を回避することができた。
登場順 | 国名 | 言語 | アーティスト名 | 曲目 (en:英題) |
順位 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|---|
01 | ![]() |
フランス語 | Hugues Aufray ユーグ・オーフレイ |
Dès que le printemps revient | 4 | 14 |
02 | ![]() |
オランダ語 | Anneke Grönloh アンネケ・グレンロ |
Jij bent mijn leven | 10 | 2 |
03 | ![]() |
ノルウェー語 | Arne Bendiksen アーネ・ベンディクソン |
Spiral | 8 | 6 |
04 | ![]() |
デンマーク語 | Bjørn Tidmand ビヨルン・ティマンド |
Sangen om dig" | 9 | 4 |
05 | ![]() |
フィンランド語 | Lasse Mårtenson ラッセ・モーテンソン |
Laiskotellen" | 7 | 9 |
06 | ![]() |
ドイツ語 | Udo Jürgens ウド・ユルゲンス |
Warum nur, warum? (en:Only why, why?) |
6 | 11 |
07 | ![]() |
フランス語 | Rachel ラシェル |
Le chant de Mallory | 4 | 14 |
08 | ![]() |
英語 | Matt Monro マット・モンロー |
I Love the Little Things | 2 | 17 |
09 | ![]() |
ドイツ語 | Nora Nova ノーラ・ノーヴァ |
Man gewöhnt sich so schnell an das Schöne | 13 | 0 |
10 | ![]() |
フランス語 | Romuald ロミュアル |
Où sont-elles passées ? | 3 | 15 |
11 | ![]() |
ポルトガル語 | António Calvário カルヴァリオ・アントニオ |
Oração | 13 | 0 |
12 | ![]() |
イタリア語 | Gigliola Cinquetti ジリオラ・チンクェッティ |
Non ho l'età 夢みる想い |
1 | 49 |
13 | ![]() |
ボスニア語 | Sabahudin Kurt サバフディン・クルト |
Život je sklopio krug | 13 | 0 |
14 | ![]() |
イタリア語 | Anita Traversi アニタ・トラヴェルシ |
I miei pensieri | 13 | 0 |
15 | ![]() |
フランス語 | Robert Cogoi ロバール・コゴア |
Près de ma rivière (en:My river of memories) |
10 | 2 |
16 | ![]() |
スペイン語 | Los TNT(Tim, Nelly & Tony) ティム・ネリー&トニー |
Caracola | 12 | 1 |
得点表
歌詞
各曲の歌詞については以下を参照のこと
Diggiloo Thrush
出典
英語版・フランス語版
ユーロビジョン・ソング・コンテスト1964
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「夢みる想い」の記事における「ユーロビジョン・ソング・コンテスト1964」の解説
イタリア代表のジリオラ・チンクェッティがイタリア語で歌った。それまでのイタリア代表の楽曲と同じように、この曲は同年のサンレモ音楽祭で優勝した曲であった。当時のチンクェッティは16歳で、後にベルゲンで開催されたユーロビジョン・ソング・コンテスト1986で「あこがれ(フランス語版)」を歌い優勝した当時自称15歳、実際には13歳であったサンドラ・キムに次ぐ、史上2晩目に若いユーロビジョン・ソング・コンテスト優勝者である。 ユーロビジョン・ソング・コンテスト1964では、「Oração」を歌ったポルトガル代表のアントニオ・カルバリオ(ポルトガル語版)の次、「Život je sklopio krug」を歌ったユーゴスラビア代表のサバフディン・クルト(英語版)の前である、12番目に登場した。投票結果は僅差であったが、この曲は49ポイントを獲得して出場16曲中の首位となった。 「夢みる想い」は、イタリアのみならず、ヨーロッパ大陸の他の国々、スカンディナヴィア、さらに全世界において、チンクェッティに相当の商業的成功をもたらし、様々な言語で、例えば英語版「This is My Prayer」、スペイン語版「No Tengo Edad」、フランス語版「Je suis à toi」、ドイツ語版「Luna nel blu」、日本語版「夢みる想い」が制作され、またさらに多くのアーティストたちによって、さらに多くの言語でのカバーが制作された。有名なブルガリアの歌手リリー・イヴァノヴァ(英語版)や、香港の歌手レベッカ・パン(英語版)(潘迪華)は、1964年のうちにこの曲をカバーした。 翌年のユーロビジョン・ソング・コンテスト1965で優勝したのは、ルクセンブルク代表として「夢見るシャンソン人形」を歌ったフランス・ギャルであった。 この年のイタリア代表は「Se piangi, se ridi」を歌ったボビー・ソロであった。 チンクェッティは、後にユーロビジョン・ソング・コンテスト1974にも出場し、「夢はめぐり来て(英語版)」を歌ってABBAの「恋のウォータールー」に次ぐ2位に入り、ローマで開催されたユーロビジョン・ソング・コンテスト1991では、トト・クトゥーニョとともに司会を担当した。1974年には、「夢はめぐり来て」の英語版「Go」が全英シングルチャートで8位まで上昇し、彼女が「ワン・ヒット・ワンダー」(一発屋)ではないことを証明した。
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