ユーロビジョン・ソング・コンテスト1964
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ユーロビジョン・ソング・コンテスト1964こと第9回ユーロビジョン・ソング・コンテスト(Grand Prix Eurovision 1964)は1964年3月21日(土曜日)にデンマーク・コペンハーゲンのチボリコンサートホールで開催された。
プレゼンター:ロッテ・ウェーバー(使用言語:デンマーク語、英語、フランス語)。音楽監督のカイ・モーテンセンは、デンマークとポルトガル代表の指揮を担当。フランスは フランク・プゥルセルが6年連続で、モナコは ミシェル・コロンビエが担当した。放送時間:1時間30分。製作:DRデンマーク放送協会。
この大会のオリジナル記録映像は、DRが1970年にDRで火災にあって焼失したため現存しない。
- 1 ユーロビジョン・ソング・コンテスト1964とは
- 2 ユーロビジョン・ソング・コンテスト1964の概要
- 3 結果
- 4 歌詞
ユーロビジョン・ソング・コンテスト1964
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「夢みる想い」の記事における「ユーロビジョン・ソング・コンテスト1964」の解説
イタリア代表のジリオラ・チンクェッティがイタリア語で歌った。それまでのイタリア代表の楽曲と同じように、この曲は同年のサンレモ音楽祭で優勝した曲であった。当時のチンクェッティは16歳で、後にベルゲンで開催されたユーロビジョン・ソング・コンテスト1986で「あこがれ(フランス語版)」を歌い優勝した当時自称15歳、実際には13歳であったサンドラ・キムに次ぐ、史上2晩目に若いユーロビジョン・ソング・コンテスト優勝者である。 ユーロビジョン・ソング・コンテスト1964では、「Oração」を歌ったポルトガル代表のアントニオ・カルバリオ(ポルトガル語版)の次、「Život je sklopio krug」を歌ったユーゴスラビア代表のサバフディン・クルト(英語版)の前である、12番目に登場した。投票結果は僅差であったが、この曲は49ポイントを獲得して出場16曲中の首位となった。 「夢みる想い」は、イタリアのみならず、ヨーロッパ大陸の他の国々、スカンディナヴィア、さらに全世界において、チンクェッティに相当の商業的成功をもたらし、様々な言語で、例えば英語版「This is My Prayer」、スペイン語版「No Tengo Edad」、フランス語版「Je suis à toi」、ドイツ語版「Luna nel blu」、日本語版「夢みる想い」が制作され、またさらに多くのアーティストたちによって、さらに多くの言語でのカバーが制作された。有名なブルガリアの歌手リリー・イヴァノヴァ(英語版)や、香港の歌手レベッカ・パン(英語版)(潘迪華)は、1964年のうちにこの曲をカバーした。 翌年のユーロビジョン・ソング・コンテスト1965で優勝したのは、ルクセンブルク代表として「夢見るシャンソン人形」を歌ったフランス・ギャルであった。 この年のイタリア代表は「Se piangi, se ridi」を歌ったボビー・ソロであった。 チンクェッティは、後にユーロビジョン・ソング・コンテスト1974にも出場し、「夢はめぐり来て(英語版)」を歌ってABBAの「恋のウォータールー」に次ぐ2位に入り、ローマで開催されたユーロビジョン・ソング・コンテスト1991では、トト・クトゥーニョとともに司会を担当した。1974年には、「夢はめぐり来て」の英語版「Go」が全英シングルチャートで8位まで上昇し、彼女が「ワン・ヒット・ワンダー」(一発屋)ではないことを証明した。
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