メンフィスの戦いとは? わかりやすく解説

メンフィスの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/02 14:46 UTC 版)

河川防衛艦隊」の記事における「メンフィスの戦い」の解説

プラム・ポイント・ベンドの戦いから1か月経たないうちに、河川防衛艦隊は再び西部砲艦隊に対す攻撃試みたが、いくつかの点で状況異なっていた。例えば、乗組員含まれない陸軍砲兵砲手務め特異な編成秘めた問題点は、南軍損失増加に伴う士気低下あわせて顕著になっていった砲兵水兵対立激しくなり、小規模な任務において、砲兵らが乗艦拒否した事例少なくとも1件報告されている。1862年6月5日艦隊派遣され砲兵の上官にあたるM・ジェフ・トンプソン(英語版准将は、彼らを艦隊から撤収させた。しかし、いずれの装綿艦も砲戦ではなく衝角戦主眼においていたので、砲兵らの離脱は必ずしも艦隊深刻な影響与えなかった。 6月6日朝、北軍艦隊集結果たし戦闘の準備整えたまた、この際北軍衝角戦艦隊英語版)も合流している。同艦隊はその組織上の欠点含め南軍側の同種部隊模倣していた。河川防衛艦隊にはメンフィス近くで戦う以外に選択肢はなく、プラム・ポイント・ベントの戦いのような地の利期待できなかった。 メンフィスにおける南北艦隊衝突混戦極めた両軍ともの指揮命令系統混乱し統制されない衝角戦頻繁に行われ北軍艦隊からの南軍側に対す砲撃行われたためである。海戦の経過詳細に確認することは困難だが、結果は明白である。北軍艦1隻が沈没(後に引き上げられた)した一方、8隻中7隻の南軍艦が沈没あるいは鹵獲された。ジェネラル・ヴァン・ドーンだけはヤズー川をたどって離脱成功したものの、いささか不本意な形で、6月26日火を放って放棄された。 南軍艦ジェネラル・ブラッグ。1862年から1863年頃、イリノイ州カイロあるいはマウンドシティ(英語版)にて撮影されたと思われる南軍艦ジェネラル・プライス。1864年1月18日ルイジアナ州バトンルージュにて撮影

※この「メンフィスの戦い」の解説は、「河川防衛艦隊」の解説の一部です。
「メンフィスの戦い」を含む「河川防衛艦隊」の記事については、「河川防衛艦隊」の概要を参照ください。

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