メタ哲学の理論的根拠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 15:18 UTC 版)
メタ哲学は、哲学に関する一般的言明のうちいくつかを哲学それ自体と区別することは生産的であるという考えに基づいている。他の多くの文化的実践と比較すると、哲学にとってこの区別はむしろ疑わしいものであるが、言語の場合も哲学と同様である。つまり、英語という言語について英語で話すとき、対象としての英語とメタ言語としての英語が区別されている。哲学者がメタ哲学という用語を使うとき、それは未だ少数派なのであるが、多数派の哲学者がこの考えに探究する価値を見出していないと推測される。それ自体が再帰的な営みである限り、哲学は、例えばそれ自体の伝統や、論敵、歴史に訴えるといったことによって常に既にその思想を融合させている。したがって、例えばヘーゲルのような歴史主義に係る哲学は、メタ哲学という言葉を使っていなくともメタ哲学である。共時的な方法や体系学的な方法は歴史主義的な方法や通時的な方法よりはっきりと「メタ哲学的」である。 ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインはメタ言語からメタ哲学を類推することを否定したことで知られる: ある人がこう考える:哲学が「哲学」という言葉の用法について考えればそれは二次哲学に違いない。しかし、そうではない。というのは、それはむしろ綴字法の場合と同様である。綴字法は二次綴字法となることなく他の字と同様に「綴字法」という字句を扱う。 —ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン, 『哲学探究』, 121 つまり、「綴字法」という字句の綴字法を考えることは確かにメタ的な営みだが、しかし「綴字法」という字句も元から綴字法の扱う対象であり、それを扱ったからといって通常の綴字法から分離して「メタ綴字法」「二次綴字法」が生じるわけではない。哲学の場合もこれと全く同じである、とヴィトゲンシュタインは考えている。近年ではティモシー・ウィリアムズがメタ哲学という言葉を使うのをやめ、それが勘違いかもしれないということを述べている。: 私はすでに『メタ哲学』という言葉を却下している。哲学の哲学は他のあらゆる哲学の分野がそうであるように自動的に哲学の一領域ということになるが、メタ哲学という言葉はまるでそれが哲学を上から見下ろしすものであるかのように感じられる。 —ティモシー・ウィリアムズ, The Philosophy of Philosophy ニコラス・レシャーやリチャード・ダブルと言ったほかの哲学者たちはメタ哲学という言葉を採用しいい意味で使っている。普遍的な哲学的原理の研究を提出しつつレシャーの著書はメタ哲学についての彼の考えとともに始まっている: メタ哲学は哲学を実践することそれ自体に対する哲学的考察である。その最終的な目的は見込みや展望を闡明する領域の方法を研究することである —ニコラス・レシャー, Philosophical Dialectics, an Essay on Metaphilosophy, p.1
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