ミハイルとダニール
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「ガーリチ・ヴォルィーニ公国統一戦争」の記事における「ミハイルとダニール」の解説
「ru:Междоусобная война в Южной Руси (1228—1236)」も参照 1231年、チェルニゴフ公ミハイルがキエフ大公位の獲得に動きだすと、ダニールはキエフ大公位にあったウラジーミルの助成に回った。同年、ボロホフツィ族(ru)を加えたハンガリー軍が再度遠征軍を発し、ベロベレジエ(ru)からスルチ川流域にかけて、さらにはチホムリ、ペレムィシュリの二都市を制圧した。これを見たキエフ大公ウラジーミルはダニールから離反した。 1233年秋、ハンガリーがガーリチ公位に据えていたアンドラーシュが死亡し、ガーリチ公位の称号をも、ダニールが手中に収めた。1234年春にはベルズ公アレクサンドルを捕虜とした(以降、史料上にアレクサンドルに関する記述はみられず、獄中で死亡したと推測されている)。1234年、キエフ大公ウラジーミルはキエフでチェルニゴフ公ミハイルの軍に包囲され、ダニールに援助を求めた。救援に駆け付けたダニールはウラジーミルと共にチェルニゴフ公国へ進軍し、講和条約を結ばせた。しかしイジャスラフとポロヴェツ族の率いる報復攻撃を受け、トルチェスクでダニールは敗北、ウラジーミルは捕虜となった。キエフ大公位にはイジャスラフが就いた。この紛争の際に、ガーリチのボヤーレは、イジャスラフがポロヴェツ族と共にヴォルィ-ニに侵攻したと偽報を発し、ダニールの弟ヴァシリコをヴォルィ-ニに派遣させた。この機にダニールを追放し、1235年にミハイルをガーリチ公として招聘した。 ガーリチを追われたダニールはハンガリーへ身を寄せた。この年、ハンガリー王アンドラーシュ2世が死亡したため、1235年10月14日、ダニールはハンガリー王の封臣として、セーケシュフェヘールヴァールでのベーラ4世の戴冠式に参加した。戴冠式の後の1235年末、ヴァシリコがガーリチを奪還すべく軍を発した。明けて1236年、ガーリチのボヤーレはボロホフツィ族と共に迎撃に出るが、カメネツで敗北し、多くが捕虜となった。ガーリチ公位にあったミハイルとキエフ大公イジャスラフは、マゾフシェ公コンラト、ポロヴェツ族と連合し、捕虜の引き渡しを求めた。しかしコンラト軍はヴァシリコとの戦闘に敗れ、ポロヴェツ族は離反してガーリチ公国領を荒らし始めた。1237年の夏には、ミハイルは息子のロスチスラフと共に、ハンガリー兵を率いたダニールと、ヴァシリコの軍にガーリチで包囲された。ミハイルは一時勢力を盛り返すが、1238年、息子ロスチスラフとガーリチのボヤーレがリトアニアへ遠征(ru)した際に、ガーリチを奪還された。ミハイルはチェルニゴフへ撤退した。 1240年、モンゴルのルーシ侵攻が行われ、ミハイルのチェルニゴフ公国もまた侵略を受けた。チェルニゴフは陥落し、モンゴル帝国軍はドニエプル川左岸(キエフの対岸)に至ると、キエフに降伏を迫った。ミハイルはチェルニゴフを脱し、ハンガリーへ退避した。この機に際し、ダニールはキエフ大公位にあったロスチスラフ(ミハイルの子とは別人)を追い、キエフへ入城した。しかしキエフには留まらず、軍司令官ドミトルに防衛を任せてガーリチへ籠った。バトゥの率いるモンゴル帝国軍は、降伏を拒否したキエフを陥落させると、ガーリチ、ヴォルィーニ地方へと侵出した。ダニール、弟のヴァシリコらもまた、ハンガリーあるいはポーランドへと退避した。モンゴル帝国軍が引き上げたのち、ミハイルはキエフへ戻り、モンゴル帝国の指示によって息子ロスチスラフと交代させられる1243年まで、キエフを統治した。ダニール、ヴァシリコらはガーリチ、ヴォルィーニへ、ミハイルの子ロスチスラフはチェルニゴフへ戻り、自領の統治を再開した。
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