ミッドウェイ海戦・山口多聞と阿部俊雄
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「阿部俊雄」の記事における「ミッドウェイ海戦・山口多聞と阿部俊雄」の解説
1942年6月5日、南雲機動部隊はミッドウェイ海戦にて、主力空母4隻を一日で失う大敗を喫した。この戦闘で阿部は、南雲機動部隊を護衛する第十駆逐隊(秋雲、夕雲、巻雲、風雲)の司令であった。唯一最後に残った空母「飛龍」の山口多聞少将は、機動部隊による猛反撃でアメリカ空母「ヨークタウン」を航行不能(その後沈没)としたが、「飛龍」は敵急降下爆撃機からの爆弾をくらい大火災を起こして航行不能となり傾き始めた。 阿部は乗艦「風雲」を「飛龍」の左舷に横付けして献身的に放水消火を試みるが、火の勢いはおさまらず、ついには「飛龍」山口少将は総員退艦を命じ、自身は「飛龍」の最後を見届け、艦と運命をともにする旨の訓示を行なった。約800 名の乗員が、駆逐艦「風雲」、「巻雲」に移乗が完了すると、阿部は「飛龍」に乗り込み山口少将と加来艦長に誠心誠意、退艦の説得を試みた。 「2艦喪う責の重さも、一将を喪う歎きにかえられません。七生報国とは七度の死線を生き延びること、と山本長官も訓えられているではありませんか」「司令官どうか生きてください、海軍と我々にはあなたこそが、かけがいのない先輩です」と血を吐くような気迫で言葉を投げかけて翻意を促すも、山口少将の返事は、「私は責を全うする。阿部大佐、この戦争は2、3年は激戦の形で続くと思う。その間、君も私と同じ立場になるかもしれない。その時、一艦、一戦隊の沈没や敗辱の責は、一将にとって死にまさるものであることが分かるだろう。敗勢が己の不徳によることなく、たとえ渾身の善戦をなして悔いること無くてもだ。古来、海将にとって艦とはそのようなものではないか。お互い身をゆだねるのはこの海だ。私は「飛龍」とともにお先に征くが、君たちは本海戦の無念を晴らしてくれ」と阿部に言うと、さらに「君が駆逐艦へ退去後、魚雷をこの「飛龍」へ射ち込んで処分してくれ、私がこの世に求める最後の無心、介錯である」と阿部に最後の命令を下した。阿部は駆逐艦へ戻ると、痛恨の思いで決別の魚雷を射ちこみ、山口少将、加来艦長と「飛龍」を海に葬った。 阿部はこの2年5ヶ月後、空母「信濃」艦長として沈没の憂き目に会い、艦と運命をともにすることとなったが、その時、心に去来したのは山口少将の最後の姿だったかもしれない。
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