マーディア包囲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/26 04:06 UTC 版)
十字軍の総勢は、騎士と歩兵を合わせて5000人、船乗り1000人と推計されている。当時の教皇庁は大分裂のただなかであったが、十字軍にはローマのボニファティウス9世とアヴィニョンのクレメンス7世の両陣営から代表の聖職者が派遣されてきて、出発する十字軍を祝福した。60隻の軍船から成る艦隊は1390年7月1日にジェノヴァを発ち、同月末にマーディア付近に抵抗を受けないまま上陸に成功した。それから2か月をかけて、十字軍は陣営を設営し、マーディアを包囲したが、有用な攻城兵器を持ってきていなかったため城壁を破ることができなかった。ここで、伝えられるところでは4万を数えたというスルターンのアブールアッバース・アフマド2世率いるハフス朝軍が到着した。ここにはベジャイアやトレムセンの王たちも参加していた。彼らは十字軍との会戦は避けつつ、襲撃を繰り返した。そのため十字軍側は、自分の陣営の周りにも城壁を巡らせなければならなかった。ベルベル人の王たちから派遣され十字軍の陣営を訪れた使節団は、自分たちが悩ませているのはジェノヴァ人だけなのに、なぜフランス人が攻撃してくるのかと尋ねた。十字軍側が使節に対し「イエス・キリストという神の子を磔にして死に至らしめた」不信心者だと罵ると、使節は「それはユダヤ人がやったことであって自分たちがやったことではない」といって嘲った。ここに交渉は決裂した 。 十字軍はハフス朝の救援軍と接敵するたびに多くの敵を殺したが、次第に疲弊して撤退を余儀なくされた。包囲は一向に終わりが見えず、補給も滞り始めていたためである。最後の強襲が失敗すると、彼らも交渉の席につかざるを得なかった。一方ベルベル人側も、重装備のヨーロッパ人と戦って勝つことができないのは認識しており、両陣営とも敵対関係を解消することを望んでいた。
※この「マーディア包囲」の解説は、「マーディア十字軍」の解説の一部です。
「マーディア包囲」を含む「マーディア十字軍」の記事については、「マーディア十字軍」の概要を参照ください。
- マーディア包囲のページへのリンク