マーディン高校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:03 UTC 版)
「ケビン・ガーネット」の記事における「マーディン高校」の解説
1991年、ガーネットは地元マーディン高校に入学。同校のバスケチームでガーネットは初めて組織化された試合を経験するが、彼は1年目のシーズンにて平均12.5得点14.0リバウンド7.0ブロックの成績を残す。なお、プロ入り後も着用し続ける事になる背番号『21』はこの頃から使用しているが、これは当時セント・ジョーンズ大学で活躍していたマリック・シーリーを意識してのことだった(このシーリーとは後にミネソタ・ティンバーウルブズ時代にチームメートとなる)。あたかも憧れのマジック・ジョンソンのようにオールラウンドな才能を発揮し始めたガーネットは、2年目のシーズンにはあらゆるポジションをこなす優秀な選手へと成長する。一方で学業は順調とは言いがたく、学校側は学校のスターである彼に専門の家庭教師を付けようとしたが、この頃からすでにNBA入りを意識していたガーネットは学校のこの申し入れを拒んでいる。3年目のシーズンには平均27.0得点17.0リバウンド7.0ブロックの成績を残し、チームをサウスカロライナ州のチャンピオンシップに導くと共に自身は州のMr.バスケットボールに選ばれた。3年生にしてこのタイトルを獲得するのは同州初の快挙であった。NBA入りを目指すガーネットは順調なバスケキャリアを歩んでいるように見えたが、しかし1994年5月に事件は発生する。校内にて黒人と白人の学生たちによる乱闘が発生。駆けつけた警官たちは乱闘の周囲にいた学生全員を逮捕し、その中に偶然近くを通っていたガーネットも含まれていた。ガーネットは保釈金を払って釈放されるが、この乱闘事件のニュースは全米を駆け巡り、これまでにガーネットが築き上げてきた評判は一瞬にして壊されてしまうことになった。同時期に長年の親友であったエルドリック・レーモンを交通事故で失うという悲劇も重なったガーネットは、裕福ではなかった少年時代にそうしたように、辛いこの時期をバスケットに情熱を傾けることで切り抜けようとした。ガーネットは夏にアマチュア・アスレチック・ユニオンの有名な大会であるケンタッキー・フープフェスに出場。ここでの活躍が認められ、全米から優秀な高校選手が集まるナイキ・サマーキャンプへ招待された。この場でガーネットはイリノイ州シカゴにあるファラガット高校から参加したロニー・フィールズと親交を深めるが、ガーネットの境遇を知ったフィールズはガーネットにシカゴに来るよう誘った。母と姉の同伴のもとシカゴを訪れたガーネットは、ファラガット高校での再出発を決意した。
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