マルティニーク島への攻撃とは? わかりやすく解説

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マルティニーク島への攻撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/08 08:01 UTC 版)

マルティニーク島侵攻 (1762年)」の記事における「マルティニーク島への攻撃」の解説

1762年1月5日、ジョージ・ロドニーの艦隊援護のもと、イギリス遠征軍出港セントルシア岩壁カストリーズ港をこえ、2日後マルティニーク南端越えてサンタンヌ湾に着いた艦隊はそこで錨を降ろし、そこから北にあるレゾンセ=ダルレ英語版)で2個旅団上陸させた。上陸軍はそこからフォールロワイヤル海岸の南まで進軍したが、それまでの道が大砲輸送適しないことがわかると撤収した1月16日イギリス全軍がネグロ・ポイントよりやや北に位置しフォールロワイヤルから5キロメートル離れたカスナヴィル英語版)に上陸した。しかし、カスナヴァルからフォールロワイヤルに続く道には溝や雨裂多く、さらにフランス軍要所に砦を築き、モルヌ・トルテンソンに砲台設置したためモンクトンはまず遠回りして砲台破壊しなければ前進できなかった。 24日朝、イギリス軍砲台完成させ、夜明けにモルヌ・トルテンソンに総攻撃をしかけ、同時にフランス軍右翼分遣隊派遣して奇襲、9時にはモルヌ・トルテンソンおよびその砲台占領したフランス軍大混乱に陥りながらモルヌ・トルテンソンより高台にあるモルヌ・グレニエへ撤退した。またイギリスの2個旅団がモルヌ・トルテンソンの北の各所にいるフランス軍戦い、モルヌ・グレニエへの撤退追い込んだ。この日の戦闘イギリス士官33人と兵士350人の死傷者出した25日今やフォールロワイヤル射程内に収めたモンクトン軍は城砦への砲撃はじめたが、フランス軍がモルヌ・グレニエから砲撃してきたため代わりにそちらの占領優先した27日午後フランス軍突如3個縦隊陣形イギリス軍左翼攻撃したが、そのうちの1個縦隊が脇をハイランダー部隊攻撃され潰走したことでフランス軍はモルヌ・グレニエへ敗走したイギリス軍勝利乗じて夜1時まで追撃し、モルヌ・グレニエの占領という戦果挙げた。この戦闘イギリス軍は約100人の死傷者出した。モルヌ・トルテンソンの砲台イギリス完成させ、フランス要塞から370メートルという至近距離からの砲撃ができた。 2月3日フォールロワイヤル降伏12日には島全体降伏した

※この「マルティニーク島への攻撃」の解説は、「マルティニーク島侵攻 (1762年)」の解説の一部です。
「マルティニーク島への攻撃」を含む「マルティニーク島侵攻 (1762年)」の記事については、「マルティニーク島侵攻 (1762年)」の概要を参照ください。

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