マタシン協会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/21 03:03 UTC 版)
「en:Mattachine Society」も参照 ロバート・F・ワグナーJrがニューヨーク市長を務めていた1960年代前半において、ゲイコミュニティにはニューヨーク市警察などからの嫌がらせが続いていた。当時の同性愛者は都市における望ましくない存在とされていた。そのためゲイバーやゲイクラブはマフィアの影響下にあり、また資金源ともされていた。またニューヨーク州アルコール飲料局は許認可を与えていたバーに対して同性愛者へのアルコール提供を禁じており、違反店舗には免許の取り消しを行なっていた。この措置は裁判所によって1940年代前半に認められていた。 当時ニューヨークマタシン協会の代表であった Dick Leitsch は同性愛者による初のデモ活動を起こし、1960年代を通じてピケッティングを行なっていた。ニューヨークマタシン協会は酒類提供に関する法律の研究を依頼し、州法では同性愛者がバーに集う事を禁じる法律はないが、バーでの乱暴行為(disorderly behaviour)を禁じており、アルコール飲料局はこれを同性愛者の禁止(homosexual behaviour)と解釈してしまっているとの結論に達した。これを受けて Leitsch は協会のメンバー3人がローワー・イースト・サイドのレストランに出向き、同性愛者であることを公表した上でのサービスの提供拒否に対してはアルコール飲料局への告訴を行なう旨の予告を報道記者に対して行なった。この出来事は「Sip In」として知られるようになり、グリニッジ・ヴィレッジのジュリアス3度目の実行にて酒の提供を引き出すことに成功した。この事はメディアの注目を集め、市内のレストランからアルコール飲料局に対する法的行動によって最終的には1967年からは同性愛への酒類提供を理由とする免許の取り消しは行なわれなくなった。 1969年より前にマタシン協会はニューヨーク市警察のゲイ男性に対するおとり捜査の方針変更とゲイ男性の採用不許可の方針を撤回することに成功している。新しい市長となっていたジョン・リンゼイやマタシン協会によるメディア活動がおとり捜査の撤回に少なくない影響を与えたとされ、リンゼイは市内にて発生していた多くの社会的衝突に注力し、おとり捜査の撤廃に繋がったとも評価されている。
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