マグノソン事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 23:21 UTC 版)
「タマム・シュッド事件」の記事における「マグノソン事件」の解説
1949年6月6日、ソマートン海岸の20km北のラーグス・ベイ(英語版)の砂丘の上で、当時2歳のクライヴ・マグノソン (英語: Clive Mangnoson) の遺体が袋に入った状態で見つかった。遺体の横には父親のキース・ウォルドマー・マグノソン (英語: Keith Waldemar Mangnoson) が意識不明の状態で横たわっていた。父親は野ざらしになっていたことによる衰弱状態で苦しんでいる中病院へ搬送された。病院での検査の結果、彼は精神病院へ移送された。 2人は発見の4日前から行方不明になっており、警察はクライヴは発見時、死後24時間は経過していると判断した。2人を発見したのは同地の住人ニール・マクレー (英語: Neil McRae) であり、「2人がいる場所を前夜、夢の中で見た」と主張した。 検視官はクライヴ・マグノソンの死因を特定できなかったが、自然死ではないと判断された。少年の胃の内容物は、さらに詳しく調べるために政府の研究者の元へ送られた。 少年の死後、母親のロマ・マグノソン (英語: Roma Mangnoson) は、覆面をした男に脅迫されていたと報告した。彼女は「アデレード北部の郊外ラーグズ・ノース(英語版)のチープサイド通りにある自宅前で、おんぼろのクリーム色の車にあやうく轢かれそうになり、車が停まると中からカーキ色のハンカチを顔に巻いた男が降りて来て「警察などに近づくな」と告げた」と供述している。さらに、その頃似た外見の男が、自宅の近くで誰かを待ち伏せしているのも目撃されている。マグノソン夫人は、この件は夫がソマートン・マンの身元を特定しようとしていたことに関連している、と信じている。夫はソマートン・マンを、南オーストラリア州のマレー川流域の町レンマーク(英語版)で1939年に同僚だったカール・トンプセン (英語: Carl Thompsen) であると信じていた。 同じ頃、ラーグズ進歩協会 (英語: the Largs North Progress Association) の秘書、J. M. ガウワー (英語: J. M. Gower) は「もしマグノソンの事件に関与するなら、マグノソン夫人が事故に遭う」という何者かからの脅迫電話を受けていた。また、ポート・アドレード市長A. H. カーティス (英語: A. H. Curtis) も 「マグノソンの事件に鼻を突っ込むと、マグノソン夫人が事故に遭う」という脅迫電話を3回受けていた。警察は「電話自体はいたずらで、発信者はマグノソン夫人を脅した男と同一人物ではないか」と疑った。 警察へ脅迫について供述した後にマグノソン夫人は体調を崩し、病院での治療を求めた。
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