マカオの朱印船騒擾事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 03:22 UTC 版)
「岡本大八事件」の記事における「マカオの朱印船騒擾事件」の解説
慶長14年(1609年)2月、肥前日野江藩(後の島原藩)主有馬晴信の朱印船が占城(チャンパ)に向かう途上でポルトガル領マカオに寄港した折、配下の水夫がポルトガル船マードレ・デ・デウス号の船員と取引をめぐって騒擾事件を起こし、これをマカオ総司令アンドレ・ペソアが鎮圧して晴信側の水夫に60名ほどの死者が出た。 翌慶長15年(1610年)5月、ペソアが長崎で長崎奉行長谷川藤広に事件の調書を提出し、駿府に出向いて徳川家康に陳弁する旨を申し出た。ところが藤広は、ポルトガルとの交易縮小を危惧し、ペソアの意向に反して、事件の真相を伏せたまま自らの代理人を駿府に派遣してしまった。ペソアはこれに不満をもち、また以前より幕府の糸割符制度による不利益をポルトガル商人に陳情されていたこともあって、自ら駿府に赴こうとする騒ぎを起こした。結局これはイエズス会から止められたが、藤広の怒りを買う結果となった。 藤広は報復を考えていた晴信をたきつけ、家康にペソアと商船の捕縛を請願させた。また晴信はこれと抱き合わせに、伽羅木入手のための朱印船を出帆する許可を請願した。伽羅入手はそもそも家康が藤広に所望していたものであり、家康の意向に沿ったものだった。報復を許可することでポルトガルとの交易が途絶する危惧はあったが、同時期にスペインやオランダとの交易が活発化しはじめポルトガルの地位が相対化していたこと、また伽羅入手を急いだこともあり、結局家康は晴信へ報復の許可を出した。実行の監視役として、もと藤広の家臣で当時本多正純家臣となっていた岡本大八を送り、ペソアには駿府への召喚を命じた。
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