マウント・ホープへの旅
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「ロス海支隊」の記事における「マウント・ホープへの旅」の解説
2年目のシーズンの作業は3段階で計画されていた。まず総量3,800ポンド (1,700 kg) の物資をエバンス岬からハットポイントに運ぶことだった。これら物資をハットポイントからミンナブラフのベース補給点に運ぶのが次の段階だった。最後は南への行程を始め、南緯80度地点の補給所を補強し、新たに南緯81度、82度、83度、そしてベアドモア氷河の麓に近い南緯83度30分のマウント・ホープに補給所を設置することだった。 3台の橇で運ぶ作業には9人がチームを組んであたった。第1段階の海氷を越えてハットポイントに運ぶ作業は1915年9月1日に始まり、その月の末には特に問題も無く終わった。第2段階はハットポイントとミンナブラフの間を行き来して荷物を運ぶのであり、好ましくない気象、難しいバリアの表面、さらにはマッキントッシュとジョイスの間で方法に関する意見の食い違いとなど、問題が多かった。このときマッキントッシュは人力による橇移動を好み、ジョイスは犬4頭を使うことを望んだ。前の冬を生き残った6頭の犬のうち2頭は妊娠していた使えなかったので、4頭だけが使えた。マッキントッシュはジョイスにその望むやり方で進行することを認め、6人の隊を犬に先導させた。マッキントッシュはワイルドとスペンサー・スミスと共に人力による橇移動を続けた。運ぶことのできた荷物の量や、人の疲労度合いから、ジョイスの主張する方法が効率がよいことが証明された。ミンナブラフのベース補給所は12月28日までに完成した。 1916年1月1日にマウント・ホープに向けた本格的な行程が始まってから間もなく、プリムス・ストーブが故障し、コープ、ジャック、ゲイズの3人はエバンス岬に戻るしかなくなった。エバンス岬ではスティーブンスが1人で待っていた。科学者のスティーブンスは気象観測と船が戻って来たときの見張りのために基地に残っていた。残った6人が南に向かって橇の旅を始めたが、直ぐにスペンサー・スミスが弱ってきた。マッキントッシュは膝の痛みを訴えていた。彼らは苦闘しながらも進み、補給所を置き、自分たちには最小の食料で済ませていたが、ジョイスの主張によって犬達にはしっかり食べさせていた。「犬達は我々の唯一の希望だ。我々の命が彼らに掛かっている」と言っていた。マウント・ホープに近づいてくると、スペンサー・スミスが倒れ、歩けなくなった。他の者達はスペンサー・スミスを小さなテントに一人で残し、マウント・ホープの最後の補給所までの残りを進んで、1916年1月26日に完了した。アーネスト・ワイルドは、ウェッデル海からシャクルトンと共に大陸を横断してきていると考えていた兄のフランク・ワイルドに宛てた手紙を残した。
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