マイケル・キスク時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 07:37 UTC 版)
「ハロウィン (ドイツのバンド)」の記事における「マイケル・キスク時代」の解説
ギターをプレイしながらメインヴォーカルを取るというスタンスに限界を感じていたハンセンの強い要望により、ヴォーカル探しが行われ、マイケル・キスクが加入。 キスクの加入により、よりポップなエッセンスも注入されることとなる。ヴァイカートの作曲する美しいメロディに乗せて、キスクの声量豊かな突き抜けるハイトーン・ボーカルがこだまする、『Eagle Fly Free』に見られるような、カイとヴァイカートのツインリードによる流麗で重厚なギター・ソロ、ツーバス・ドラムによる疾走感のある曲を特徴とするが、ヘヴィな曲や『Dr. Stein』等コミカルな曲もある。中でも1987年の2nd『Keeper Of The Seven Keys Part1』(邦題:守護神伝-第一章-)、翌1988年の3rd『Keeper Of The Seven Keys Part2』(邦題:守護神伝-第二章-)の2枚のアルバムは世界中で大ヒットし、ジャーマンメタルバンドとしてのハロウィンの名を広めた。この人気に呼応する形で海外ツアーも積極的にこなし、来日ツアーも行っている。この2枚のアルバムは当初は1枚のアルバムに収録されるはずだったものが、予算やその他の関係により、2枚に分割されて発売されたものである。 地元メディアからは「スコーピオンズ、アクセプトに次ぐ逸材」と評され上記のようにレコードが大ヒットしツアーの数もこなすなど、バンドは事実上いわゆる"黄金期"を迎えており一見すれば順風満帆のように見えるが、ヴァイカートは後に当時のマネージメントは非常に過酷なものであったと語っており、特にカイ・ハンセンは周囲に「ツアーの回数を減らしたい」と漏らしてしまうほどに精神的にも疲弊していた。そうした状況の中で生まれた楽曲が「I Want Out」であったと後のインタビューで語っている。アメリカのHM/HR市場にも積極的に売り込んだ時期もあったが、いま一つの結果に終わっている。 そういった不安定な状況の中でメンバー間での仲にも徐々に捻れが生じ始め、さらにはカイ・ハンセンが健康上の問題を抱えるようになり、1989年1月1日にハンセンが脱退する。後任にローランド・グラポウを迎え、レコード会社をノイズ・レコードからEMIに移籍(マネージメント会社もアイアン・メイデンが所属しているサンクチュアリに変更)して作成した4thアルバム『Pink Bubbles Go Ape』だが、1991年3月のリリース直前に前所属レコード会社のノイズ・レコードから裁判を起こされ、イギリス以外では発売中止となり、バンド活動も禁止となる。1年後の1992年には無事裁判の決着がつき、イギリス以外でもアルバムがリリースされ、バンド活動も行えるようになった。しかしハンセンが脱退したことでキスクのバンド内の発言力が大きくなり、ポップ・メタル路線が強調された『Pink Bubbles Go Ape』、1993年には『Keeper〜』からかけ離れた音楽性を持ったアルバム『Chameleon』を発表。この当時のBURRN!誌でのインタビューでは、キスク、ヴァイカートが誌面に登場することが多かったが、ハンセンを「勝手にバンドを去った」「俺たちを置き去りにした」と不仲を強調する発言が見受けられた。 その後、インゴの負傷もあり、キスクとヴァイカートの仲もだんだんと亀裂が深まり(ヴァイカートの発言権にキスクが異を唱えることがあったため)、次第に亀裂が決定的なものになり、キスク、インゴは事実上解雇に等しい脱退を余儀なくされ、バンドを去ってしまった。 ちなみに93年の来日公演の際、すでに重症だったインゴに代わり、リッチー・アビデル・ナビがサポートで参加。その直前の欧州ツアーでマーカスが一週間ほど休暇をとり、代行として元マスタープラン(現アイアン・セイヴィアー)のヤン=セレン・エッカートが参加している。
※この「マイケル・キスク時代」の解説は、「ハロウィン (ドイツのバンド)」の解説の一部です。
「マイケル・キスク時代」を含む「ハロウィン (ドイツのバンド)」の記事については、「ハロウィン (ドイツのバンド)」の概要を参照ください。
- マイケル・キスク時代のページへのリンク