ポルトガルのコルテス
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「ブラジル独立」の記事における「ポルトガルのコルテス」の解説
1820年に自由主義革命が勃発した。自由主義的立憲主義者によって開始された運動は、コルテス(制憲議会)の開催に結実した。コルテスでは王国初の憲法が制定された。同時にコルテスは、国王ジョアン6世の帰国を要求した。ジョアン6世は1808年以来ブラジルにいて、1815年にブラジルをポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国を構成する王国に格上げした。ジョアン6世は1821年3月7日に王太子ペドロを摂政に任命し、自身の名代としてブラジル統治を委ね、4月26日にヨーロッパへと向かった。ペドロはブラジルに残り、王国の大臣の助けをうけてブラジルの内政、外交、安全保障、金融財政の問題に取り組んだ。 ブラジルのポルトガル軍司令本部は、すっかりポルトガルの立憲主義に共感していた。ポルトガル将校の主要な指導者ジョルジェ・デ・アヴィレス(ポルトガル語版)将軍は王太子に、王国と財政の大臣のブラジルからの追放を強いた。両方ともペドロの忠実な同盟者であり、軍の手中にあった。軍の圧力に再び屈しないと誓った王太子が被った屈辱は、10年後の彼の退位に決定的な影響を与えた。その間、1821年9月30日に、コルテスはブラジル地方政府をポルトガルに劣後させる布告を可決した。ペドロ王太子は「リオデジャネイロ州知事」に完全に転落した。その後に出された他の布告は、ペドロのヨーロッパ帰還を命令し、1808年にジョアン6世によって創設された裁判所を廃止するものであった。ブラジル在住者(ブラジル生まれ、ポルトガル生まれとも)のコルテスの対策への不満は、公然のものになるまでに高まった。 漸進的にブラジルの主権を弱体化させるコルテスの行動に反対する2つのグループが現れた。フリーメイソンの支援を受けたジョアキム・ゴンサルヴェス・レド(英語版)率いる自由主義派と、ジョゼ・ボニファチオ・デ・アンドラダの率いるボニファチオ派である。両派はブラジルの目標に何の共通するものを持たなかった。主権君主国としてポルトガルと連合した国を維持しようとする要求を除いては。
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