ボランティア労力銀行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:50 UTC 版)
1973年彼女はボランティア労力銀行(後のボランティア労力ネットワーク)を組織した。1978年の時点で、この「銀行」は約2,600人の会員が参加する規模にまで成長した。会員には、十代の若者から、70代の高齢女性まで、あらゆる世代の人々が参加した。会員の大多数は30代から40代の家庭の主婦たちであった。会員は、全国各地160ほどの地域支部に分かれ、水島の自宅に置かれた本部から調整がおこなわれていた。 1979年には、第1回エイボン賞において水島個人に功績賞が贈られ、労力銀行にも金賞が贈られた。 1983年の時点で、このネットワークは、3,800人以上の会員、262支部の組織をもち、カリフォルニア州にも支部が設置されていた。 優先されていた事業は、高齢者の介護であった。2000年に介護保険制度が導入されるまで、日本には国家に基礎を置く高齢者介護の制度は存在していなかったので、介護はほぼ全面的に無給の女性家族労働によって担われていた。家族のいない高齢者の場合、選択の余地は限られており、ボランティア労力銀行はこのサービスにおけるギャップを埋める役割を果たした。 この運動は、明示的な女性解放運動ではなかったが、その目的とするところの多くをフェミニズムと共有していたし、時期的にも、高等教育を受けた未婚の女性たちが日本において新たな文化的勢力となり、多数の新しい女性組織が生まれた頃と重なっていた。 1996年に水島が死去した時点では、約4,000人の会員、326支部があったが、以降、ボランティア労力銀行は衰退し、2007年の時点では1,000名足らずの会員数となった。ボランティア労力銀行は、2000年に特定非営利活動法人となり、2001年にはボランティア労力ネットワークと改称された。
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