ホルチン部の開墾史
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順治年間(1643年 - 1661年)に、高・董・楊・周・梁・劉といった漢人六姓の人がホルチン左翼前旗に入り、秀水河沿岸に移住して開墾を始めた。 ホルチン左翼前旗 道光2年(1822年)、在住漢人農民は約200戸、開墾された草原面積は77000ヘクタール。道光3年(1823年)、耕地になった草原面積は1500ヘクタール。道光6年(1826年)、増加した漢人農民の戸は130、開墾された草原面積は1546ヘクタール。光緒29年(1903年)、彰武県(現在の遼寧省彰武県)を設置。光緒32年(1906年)、法庫庁(現在の遼寧省法庫県)を設置。 ホルチン右翼前旗 光緒30年(1904年)、開通県(現在の吉林省通楡県)を設置。 ホルチン左翼中旗 嘉慶14年(1809年)、すでに耕地に転換された草原面積は12500ヘクタール。道光2年(1822年)、在住漢人農民は約200戸、開墾された草原面積は2000ヘクタール。道光3年(1823年)、在住漢人農民は約255戸、開墾された草原面積は約2000ヘクタール。道光6年(1826年)、増加した漢人農民の戸は760戸。光緒2年(1876年)、奉化県(現在の吉林省梨樹県)・懐徳県(現在の吉林省公主嶺市)を設置。光緒7年(1881年)、康平県(現在の遼寧省昌図県)を設置。光緒28年(1902年)、遼源県(現在の吉林省双遼市)を設置。 ホルチン右翼中旗 光緒30年(1904年)、靖安県(現在の吉林省白城市洮北区)を設置。光緒34年(1908年)、醴泉県(現在の内モンゴル自治区突泉県)を設置。 ホルチン左翼後旗 嘉慶7年(1802年)、在住漢人農民は4000戸。道光12年(1832年)、懐徳・奉化・遼源の3県を設ける。 ホルチン右翼後旗 光緒31年(1905年)、安広県(現在の吉林省大安市)を設置。宣統2年(1910年)、鎮東県(現在の吉林省鎮賚県)を設置。 アヘン戦争後のジェリム盟の開墾は最も激しく行われ、ゴルロス後旗,ジャライト,ドルベト3旗に編入された漢人農民戸は159844戸で1220558人となり、これらの漢人農民戸は当時の3旗モンゴル戸の8.9倍、人口は9.8倍となった。1902年から1908年までのわずか6年間でジェリム盟の開墾された草原面積は24億5000万平方メートルに達した。こうした漢人農民による大規模な開墾は170年の間に広大肥沃なホルチン草原を耕地にしてしまい、遊牧による牧畜産業は農業・半農半牧産業に転嫁された。現在、清朝前期に存在したホルチン大草原は、清朝中期から中華民国期にかけての開墾によってフンシャンダク砂漠とホルチン砂漠に変わっている。
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