ホルチン部の形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/17 09:18 UTC 版)
モンゴル年代記の一つ、『恒河の流れ』ではジョチ・カサルの五世孫をブシュー(Бушуу)とし、アグサカルダイ(Агсахалдай)、アルグ・テムル(Аруг Төмөр)、エスンク(Eсөнхү)を経てバートル・シューシテイ(баатар Шигүшидзй)がカサル家当主になったと記す。多くのモンゴル年代記ではバートル・シューシテイが最初に言及されるホルチン部の統治者であるため、バートル・シューシテイがホルチン部の事実上の創始者であると見られる。バートル・シューシテイはアダイ・ハーンやタイスン・ハーンに仕えるモンゴルの有力諸侯の一人であったが、タイスン・ハーンを弑逆したエセン・タイシによって殺されてしまった。 バートル・シューシテイの死後、その息子ボルナイがホルチン部の統治者となったが、オンリュート内の最有力者となったのはベルグテイの後裔モーリハイ王であった。モーリハイ王はモーラン・ハーンを擁立することで権勢を極めたものの、そのモーラン・ハーンと対立してこれを弑逆したため、最終的にボルナイに殺されることとなった。モーリハイを殺しその勢力を吸収したボルナイであったが、モーリハイのようにハーンを擁立することができず、オイラトのオシュ・テムルに敗れて衰退した。 ボルナイに代わってホルチン部の統治者となったのはその弟ウネ・ボラトであり、バト・モンケ(後のダヤン・ハーン)が即位した頃にはモンゴルの有力諸侯の一人として知られていた。ウネ・ボラトはマンドゥールン・ハーンの未亡人マンドフイ・ハトンに目をつけ、マンドフイと再婚すればマンドゥールンの遺産を受け継ぐことができ、ハーンにも即位できるだろうと考えてマンドフイに求婚した。しかしマンドフイ・ハトンはチンギス・ハーンの血を引くバト・モンケがまだ健在であるのにジョチ・カサルの後裔と結婚することはできないとして、バト・モンケと結婚し彼をハーンに即位させた。以後のウネ・ボラトの動向は不明であるものの、後にダヤン・ハーンが右翼3トゥメンとダラン・テリグンで戦った際にはホルチン部はダヤン・ハーンの下で戦ったことが記録されているため、ダヤン・ハーンに服属したものと見られる。 ジョチ・カサルから14代後、ボルナイの孫にあたるクイメンクタスハラ(奎蒙克塔斯哈喇)には子が二人おり、長男のボディダラ(博第達喇)はジョルゴル・ノヤン(卓爾郭勒諾顔)と号し、次男のノムンダラ(諾捫達喇)はガルジク・ノヤン(噶勒済庫諾顔)と号した。ボディダラには9人の子がおり、長男のジジク(斉斉克)はバートル・ノヤン(巴図爾諾顔)と号し、トシェート・チンワン(土謝図親王)のオーバ(奥巴)、ジャサクト・ギュンワン(扎薩克図郡王)のブダジ(布達斉)二旗の祖となる。次男のナムサイ(納穆賽)はドラル・ノヤン(都喇勒諾顔)と号し、ダルハン・チンワン(達爾漢親王)のマンジュシリ(満珠習礼)、ビントゥ・ギュンワン(冰図郡王)のホンゴル(洪果爾)、ベイレ(貝勒)のドンゴル(棟果爾)三旗の祖となる。三男のウバシ(烏巴什)はエトファン・ノヤン(鄂特歓諾顔)と号し、ゴルロス(郭爾羅斯)部の祖となる。四男のウヤンダイホトゴル(烏延岱科托果爾)、五男のトドバートルハラ(托多巴図爾喀喇)、六男のバイシン(拜新)、七男のエルジグ・ジョリクト(額勒済格卓哩克図)等の後裔は不明。八男のアイナガ(愛納噶)はチェチェン・ノヤン(車臣諾顔)と号し、ドルベト(杜爾伯特)部の祖となる。九男のアミン(阿敏)はバガ・ノヤン(巴噶諾顔)と号し、ジャライト(扎賚特)部の祖となる。ノムンダラの子は一人で、ジェグルドゥ(哲格爾徳)といい、ジャサク(扎薩克)鎮国公のラマシシ(喇嘛什希)一旗の祖となる。 明の洪熙年間(1425年)、ホルチン部はオイラトに破られ、嫩江に避難し、同族にアルホルチン(阿魯科爾沁)部がいたため、嫩江ホルチンと号して別となる。ジャライト,ドルベト,ゴルロスの三部は共に遊牧し、チャハル部に服属した。
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