ヘッセン揺籃の地マールブルク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 19:39 UTC 版)
「マールブルク」の記事における「ヘッセン揺籃の地マールブルク」の解説
1248年から1604年まで、数度の中断をはさみながらも、マールブルクはヘッセン=マールブルク方伯の宮廷所在地であった。1247年にテューリンゲン方伯が断絶した後、方伯領はまずヴェッティン家のものとなった。しかし、聖エリーザベトの娘ゾフィー・フォン・ブラバントは、この年にフリッツラー近郊のマーダー・ハイデで、3歳の自分の息子ハインリヒを方伯であると宣言し、翌1248年にマールブルク市民は彼女とハインリヒに忠誠を誓った。 ヘッセン=テューリンゲン継承戦争(1247年 - 1264年)の結果、ゾフィーは息子のためにヘッセンの独立を勝ち取った。新しいヘッセン方伯の初代領主は、1292年にローマ王(ドイツ王)アドルフ・フォン・ナッサウによって帝国諸侯に任ぜられ、これによってヘッセン方伯は公式に法的正当性を認められた。この承認に向けての努力は、特に都市を首都に改造したり、現在のオーバーシュタットを囲む市壁の拡張を伴う防衛施設の充実に表れている。1250年頃、フォアシュタットのヴィデンハウゼンにラーン川を渡る石橋が架けられ、これにより本市への通行が改善された。聖エリーザベト教会は、建設開始から48年経った 1283年5月1日に完成した。ただし、2つの塔の完成には、その後さらに約 50年を要した。都市は成長を続け、マールブルク市民は立派な建造物を欲した。こうして聖キリアン礼拝堂に替えて聖マリア教会が、城館付属教会、聖エリーザベト教会に次ぐ第3の教会として建造された。そのゴシック様式の内陣は1297年に完成した。さらに、バルフューサー門のフランシスコ会修道院やヴァイデンホイザー橋のドミニコ会修道院などの修道院も創設された。
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