プライベートでの不幸と職への幻滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 06:15 UTC 版)
「ベドルジハ・スメタナ」の記事における「プライベートでの不幸と職への幻滅」の解説
1854年から1856年の間、スメタナは次々と家庭の不幸に見舞われる。1854年7月、次女ガブリエレが結核で2歳で死去。翌年には、音楽的才能を見せていた長女のベドジーシカが、猩紅熱により4歳でこの世を去っている。スメタナは、彼女の思い出を偲んで、『ピアノ三重奏曲ト短調』を作曲している。同曲は、1855年12月3日にプラハで演奏されたが、スメタナによれば、リストには称賛されたものの、評論家たちには厳しい評価を返されたという。現在では、同曲は深い感情が満たされた傑作と評価されている。この後もスメタナには不幸が続く。ベドジーシカの死から少しして、四女カテジナが生まれたものの、1856年6月に亡くなっている。その上、この時期には、妻であるカテジナも結核の診断を受けている。 1856年7月、スメタナは旧友であり、革命運動を共にした友人、カレル・ハヴリーチェク・ボロフスキーが死去したというニュースを聞いている。プラハの政治的風潮は、更なる陰鬱の原因となっていた。具体的には、より賢明な政府及びフランツ・ヨーゼフ1世の1848年の即位に伴う社会改革への希望は、アレクサンダー・フォン・バッハ男爵の下のオーストリア絶対主義によって色褪せていた。ピアノ学校の名声とは裏腹に、スメタナのコンサート・ピアニストとしての地位は、同世代のピアニスト、アレクサンダー・ドライショクよりも下であると一般的には考えられていた。評論家たちは、リストよりもショパンに通じるスメタナの「繊細で、透き通るような指使い」を評価していたものの、彼の身体的な脆さが彼のコンサートピアニストへの野心には深刻な欠点となっていると確信していた。この時期の、スメタナの成功した演奏としては、1856年1月のモーツァルト生誕100周年記念コンサートにおける、『ピアノ協奏曲第20番』の演奏であった。スメタナのプラハへの幻滅は大きくなり、そして、おそらくスウェーデンでのドライショクの評価に影響されて、スメタナは同地での成功を目指すことに決めた。両親へ「プラハは私を認めようとはしない。だから私はそこを離れる」と手紙を書き、1856年10月11日、スウェーデン・ヨーテボリへ旅立った。
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