ブライとマッカーサーの対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 01:44 UTC 版)
「ラム酒の反乱」の記事における「ブライとマッカーサーの対立」の解説
1790年、ジョン・マッカーサーはニューサウスウェールズ軍団の中尉としてオーストラリアに上陸し、1805年には植民地に大きな農地を持ち、商業利権もあった。このマッカーサーは、ブライの前任の何人かの総督と対立し、3回決闘していた。 ブライとマッカーサーの双方の利権はさまざまな点で衝突した。ブライはマッカーサーが、多量のラム酒を軍団に安値で流通させているのをやめさせた。他に、マッカーサーが不法に輸入したとされる蒸留所(英語版)の操業を止めさせた。マッカーサーが、キング総督から自身に払い下げられた土地の一部に関する利権は、ブライの都市計画利権と衝突した。他にもこの2人は反発し合っており、その中には上陸条例に関する反発も含まれていた。1807年6月、ある犯罪者が密航して、マッカーサーの所有船の1隻でシドニーから逃れ、同じ1807年の12月にその船がシドニーに戻った時、海運業者による条例順守を確かなものにするための保釈保証書は、失効したとみなされた。 1807年12月15日、ブライは法務官のリチャード・アトキンスに、この保証書の件でマッカーサーに出頭指令を出させた。マッカーサーはこれに応じず、逮捕され、その後保釈されて、1808年1月25日に開廷するシドニー刑事裁判所で裁かれることになった。この裁判員はアトキンスと軍団の6人の士官だった。マッカーサーは裁判の準備を整えていたアトキンスに異議を申立てた、それというのもアトキンスは彼の債務者で、根強い対立関係にあったからだ。アトキンスはこれを拒否したが、マッカーサーは他の6人の裁判員と軍団のすべての士官の支持を得てこれに抗議した。法務官なしでの裁判は行われず、法廷は解散した。 ブライは、6人の士官を反抗の廉で告訴し、問題に対処させるべくジョンストン少佐を召還した。ジョンストンは、1月24日夜にアナンデール(英語版)で軍団の士官たちとの食事から戻る馬車が壊れたため、体調がすぐれないと答えた。
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